日常生活の中で、生きていく中で、人生の中で、人には「よりどころ」が必要だ。なぜなら人生は「判断」の連続であり、判断するためには、その時の状況を把握する「物差し」が必要だからだ。その「物差し」が「よりどころ」となる。
同時に、「よりどころ」は「神様」となる。それが判断の基準になるからだ。テレビの言う事を信じている人は、テレビの情報を「よりどころ(神様)」にして、物事を判断する、「テレビ教」の信者だ。軍隊の兵士は、命令を「よりどころ(神様)」にして、命令があれば、人も殺せるし、特攻隊も出来る。「愛国教」とでも言うのだろうか。
そして、戦前の日本は、天皇が「よりどころ」だった。天皇を「神様」にしている「天皇教」だった。天皇のためだったら、命令で「死ねた」。
第二次大戦後の日本は、爆撃による荒廃、食料・物不足だけでなく、「よりどころ」であり「神様」であった天皇が、急に「象徴」というお人形様になってしまい、「よりどころ」を失って、何を頼りに生きていったら良いのか、相当戸惑ったのではないだろうか? そして、戦後、物の復興と同時に、精神的には、新しい「よりどころ」を探していたのではないだろうか?
その流れで、昭和30年代に登場したテレビを「よりどころ」とした「テレビ教」という新興宗教があらわれ、昭和40年代の高度成長期には会社を「よりどころ」とした「会社教」という新興宗教があらわれた。そう解釈すれば、なぜ親の世代があそこまで「テレビ教」なのか、なぜ団塊の世代はあそこまで「会社教」なのか、説明がつくような気がするのだ。 --> 続く
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