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2011年1月25日火曜日

食料に関する洗脳を考える その3

私の日本の田舎では、出荷されない人参、さつまいも、などが、収穫後の畑にゴロゴロ転がっている。JAが、規格外と呼ばれる大きさが異なる作物、傷が付いた作物、を買い取らないらしい。義務教育は規格外の人間を落第させるが、JAは規格外の作物を落第させて捨てる。だから、田舎の畑に行けば、落第した、規格外(傷が付いている、小さ過ぎる、大き過ぎる、ルックスが悪い等)であることをを気にしなければ、充分に食べられる食料は余っている。

食料の価格が高くなるのは、コトタマでいうイ次元である、命(イの血、イの地)のある作物を、ウ次元である競争原理の世界(経済)に無理矢理参加させるからである。本来公平である生命に対し、形、均一さ、甘さ、などで点数を付けて順位を付け、規格外は落第させ、価格を吊り上げ、食料不足を演出している。優等生だけが流通ルートに乗せられ取引される。まるで、義務教育のやり方と一緒だ。均一化させて、レールに乗せ、規格外は邪魔者として除け者にされる。

日本のメロン、トマト、スイカの甘さ、は異常である。甘さで順位を付けて、競争させて、異常に甘い作物は尋常ではない高額で取引させる。海外に滞在すると、メロンやスイカは安価な果物だが、日本のように甘さを求めてはいない。元来、水分補給の役割で食されるメロンやスイカに、甘さを求めるほうがおかしいのだ。

ただ、この責任は消費者側にもある。自然と離されて生活していると、泥が付いた野菜を嫌がったり、ルックスの悪い野菜を嫌がる。甘くないスイカを嫌がる。均一化された商品が並ぶスーパーでしか買い物をしない。均一化した思想を持った人間は、均一化した対象物としか同調しない気もする。

一昔前、日本ではバナナが高級品として扱われていた。東南アジアでは、バナナは価格競争にならないほど豊富にあるので、一房10円~20円程度からある。1本ではない、一房の値段だ。しかも、バナナの種類はすごい豊富だ。地元の人は、美味しくないバナナには見向きもしない。彼らは、私には分からない品種を見分ける目を持っている。日本には、ほんの限られた品種のバナナしか輸入されていない。しかも、あまり甘くない、美味しくない品種しか、輸入されていない気がする。

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