もともと義務教育というのは、AといったらB、CといったらD、というように、大多数が同じような反応を示すように、しかも当人はそれが自分の考えであるかのように信じ込ませる、訓練をする過程である。そして、よく訓練された生徒がテストで良い点数を取り、良い成績を取り、親や先生などまわりの人から褒められる。
例えば、明治維新に対する解釈も、坂本龍馬に対する解釈も、教科書を作成した側の解釈を答案に書くと、良い成績が取れる。仮に、坂本龍馬はグラバーにそそのかされた、なんて答案に書いたら、先生はどう反応するんだろうか?
<参考>THINKERサイトの日本人が知らないニッポン
この自動的な連想パターンがオ次元の構築であり、構築されたオ次元の完成度が高い生徒を優等生扱いするわけだから、日本人がオ次元優先になったのも当然と言える。ア次元優先の生徒など、出来の悪い生徒として、親にも泣かれ、叱られ続けてきたことだろう。
では、なぜ訓練するのか? そのほうが、支配者にとって、好都合だからである。訓練された生徒にとって好都合なわけではない。チャイムが鳴って、無条件反射で生徒は席に座る。私はこの光景を思い出す度に、羊とカウベルの関係を連想してしまう。
成績の良い、よく訓練された(オ次元優先)の生徒が、大学まで進学する。大学を卒業したら、そのまま会社に就職する。ずっと、「時間」に拘束されながら。自ら満員電車に乗って。会社にとって、よく訓練された自主的に動く労働者は重要だ。一生、「疑問」に思わなければ、それはそれで幸せな人生かもしれない。
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