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2011年1月23日日曜日

食料に関する洗脳を考える その1

ここタイに滞在していて、よく見かける光景は、タイ人は、注文した食べ物が気に入らないと、平気で残す。タイ人は、気分次第のア次元優先人種だから、食べたくないものは無理して食べない。本当によく残す。お皿の半分以上、残しているのもよく見かける。これは、温暖な気候なところは、食べ物が余っているから出来ることであって、日本人の感覚との違いを感じる。

日本では、「米粒を一粒残さずに食べる」ことが美徳とされる。そして、「お百姓さんに申し訳ない」という理屈も付いてくる。これだけで、一粒も残せないから「食料は不足している」と、食料はお百姓さんがつくるものであって「食料は自然界そのままに存在しない」、という二つの洗脳が自動的に働くように思う。

食べ物は、腐って、自然に還る。「もったいない」という発想は、それがお金に絡むと、正しいかな、とも思う。幾らかのお金で買った食物を、腐らせてムダにしてしまったら、最初に持っていたお金の価値はゼロになる。その感覚を「もったいない」と感じる。

でも、自然に育ったバナナが腐っても、またすぐにたくさん実がなることを経験上知っていたら、「もったいない」という感覚は生じない。腐っても、次のバナナがすぐにあるのだ。育てなくても、豊富にあるのだ。それが東南アジア諸国をはじめとした、赤道付近の国々だ。食料危機が嘘だということは、赤道近辺の地域に滞在してみると、すぐに分かる。私はまだほとんど行った事はないが、おそらくアフリカも同様だと思っている。

そう考えていくと、地域通貨である「腐るお金」という概念が、自然界とマッチするのもよく分かる。「腐るお金」というのは、使わなければ価値が減るお金だ。個人的には、地域通貨の問題点は、すべての生活必需品を、地域通貨だけで売買できない場合、どうしても現行のお金との関わりが生じてしまうところにある、と思っている。

特に、地域通貨で売買する距離が遠い場合、郵送料がその取引の大部分を占めてしまう。だから、本質的には、郵送料が必要ではない狭い地域内で、すべてとは言わないまでも、ほとんどの生活必需品を地域通貨の取引で賄えるようになれば、新しいタイプの自治体、本当の意味での独立国になり得る可能性は秘めている、と思う。

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