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2011年1月20日木曜日

義務教育で「正解」を外側に求める悪癖がつく

私にとって、義務教育の間は、「よりどころ」は「正解」にあった。何が正しくて、何が間違っているか? 文部省(旅すとっく)が決めた「正解」を答案用紙に書いていれば、テストの点数は高く、成績も良く、まわりからも褒められて、その流れで大学まで卒業した。「学校教」とでも言うのだろうか。(子供は未熟者だから勉強が必要な存在で「正解」は大人が知っている、ことになっている。だから、答えを外側に求めるおかしな習慣が身に付いてしまう)。

しかし、そのまま一般企業に就職して社会人になった時、何かがおかしいと思った。その時に初めて「疑い」を感じたのだ。一つの会社に終身雇用で、定年退職して、生涯年金をもらう人生を選ぶなら、会社を「よりどころ」にしても構わないだろう。実際、多くの人がそうだったのだと思う。

でも、私にはそれはイヤだったのだ。「若いうちに、好きな事をしたい」「まだまだ、やりたい事がある」「定年まで待つ、なんてマッピラだ」、そう、会社が「よりどころ」にはならない、「会社教」に入信することだけは出来ない、とすぐに分かったのだ。

同期入社で、入社式1日だけで辞めた人間も居る、と聞いた。すごく良い勘を持ったヤツだったんだろう。私には、まだそこまでの勇気はなかった。今思うと、それは「よりどころ」がなかったから。自分の「疑い」を判断する正確な「物差し」がなかったから。自分の状況把握に確信が持てなくて、次の行動が決められなかった。

その頃、私は、「疑い」を感じていることを、親、友達、同期の連中、によく話した。あとから思えば、完全に「愚痴」だ。酒を飲みながら、電話をしながら、もう「愚痴」ばっかり。「愚痴」とは、自分が抱えている「疑い」に対して、話を聞いてもらって、その答えを外側に求めている状態だろう。でも、当然、外側に答えを求めても、明確な答えなど誰も持ち合わせていない。

これが義務教育の悪い癖だ。自分以外の他者に「正解」を求めてしまうのだ。そう、答えは、自分で出す、それしかないのだ。今でこそ分かるが、まわりが「正しい」ことを選択するのではなくて、自分が「したい」ことを選択する、それが自分にとって「正しい」こと、なのだ。それが「ネコネコ教」信者の教義なのだ。

コトタマ学では、「正しい」は理屈だからオ次元で、「したい」は欲求だからウ次元である。どちらを極端に優先すれば良いということではなくて、バランスが大切だ。ただ、一般的に日本人は理屈(オ次元)が優先されすぎているので、欲求(ウ次元)を優先するくらいが、ちょうどバランスが取れる気がする。 --> 続く

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