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2011年1月28日金曜日

アメリカのコメディアン ジョージ・カーリン

前の記事「アメリカの腹話術師ジェフ・ダンハム」の最後に、「死んだテロリストのアクメッド」という日本語訳されたYou Tube動画を掲載しましたが、この動画を日本語訳したのは、デーヴィッド・アイク日本語ブログのメンバーであることに気が付きました。以前、デーヴィッド・アイク日本語ブログのサイトに、この動画が死んだテロリストのアクメッド – 腹話術師ジェフ・ダンハムというページで、紹介されていたようです。

それで思い出したのですが、この国の所有者 – ジョージ・カーリンという素晴らしい動画を観たのを思い出しましたので、ここで紹介しておきます。


上の動画はYou Tubeでしたが、FC2にも動画機能があるんですね。FC2バージョンのほうが、若干、冒頭部分[約1分35秒]が長めでしたので、こちらもリンクしておきます。

2011年1月27日木曜日

アメリカの腹話術師ジェフ・ダンハム

腹話術に興味を持ってしまったので、エンターティナーの本場アメリカの動画も探してみました。ジェフ・ダンハムという人です。彼のウェブサイトもあります。

この人の腹話術は、人形に強烈なキャラクターがあり、人形の表情が細かくて、観客との間の取り方が抜群に上手いです。一つの舞台に登場する人形は、一つだけのことが多いみたいです。それだけ、人形の個性が強いです。そして、人形のセリフに間を持たせて、ほんとに人間と人形が会話をしている雰囲気に呑み込まれてしまいます。

ただし、人間と人形のコント、というか、落語のようなやり取りで、しかもブラックジョークを含んでいるみたいなので、英語が理解できて会話の内容が分からないと、充分に楽しめない感じもしました。ですので、日本語訳されている動画だけを選んでみました。まずは、頑固親父のウォルター、です。




次は、「死んだテロリストのアクメッド」です。自爆テロに失敗して死んでしまった骸骨、という設定です。これは、もうキャラクターだけで笑えます。特に、目の動きとか、表情が最高です。観客との間の取り方も素晴らしいです。途中、カバンの中からする声は前の動画のウォルター、という設定です。


アメリカの腹話術を見ると、日本のいっこく堂の特徴は、時間差の術と、歌とモノマネを腹話術に持ち込んだところにある気がしました。

本物の芸:いっこく堂

先日、たけしのYou Tube動画を検索していて、日本にも、まだしっかりした芸人さんがいるを初めて知りました。腹話術師のいっこく堂です。私は何しろほとんどテレビを見ていないもので・・・。

「ハーフタイムショー」という番組の動画です。何組か登場しますが、一番最初に登場する「いっこく堂」の腹話術は、凄いですね。歌う腹話術、って、珍しいですよね。

 

子供番組に出演した時の映像です。こういった芸は、大人も、子供も、万人が楽しめるわけですから、そこが強みです。


いっこく堂が、中国のテレビ番組に出演した、という映像です。




You Tube以外に、Pandora TVという韓国系の動画アップサイトがあるんですね。You Tubeと比較すると、アップできる時間に制限がない、という特徴があるみたいです。この動画は、1月21日(金)のTBS系「中居正広の金曜日のスマたちへ」に、いっこく堂が出演した際の動画です。



1月28日(金)19:54~ テレビ東京系「この日本人がすごいらしい」という番組に、いっこく堂が出演するらしいですね。私も録画して、観るつもりです。日本には、本物の芸人さんが活躍できる土壌がないので、今後も独自の路線で頑張ってほしいですね。

2011年1月26日水曜日

笑わせてもらいました、たけしとさんま

いやぁ、久しぶりに笑わせてもらいました。You Tubeって、結構、おもしろい映像ありますね。

最近、テレビを見るのは、スポーツ関連番組(野球とサッカーのみ)と、旅番組だけなので、お笑い系、バラエティ系はほとんど見ていません。

でも私はもともと、ひょうきん族世代ですからね。たけしとさんまの笑い、大好きです。下記動画は、2007年の特番のエンディングみたいです。


幾つになっても、変わらないなぁ~。これが、ひょうきん族のノリだったんだよなぁ〜。あんなにいい加減に見える所ジョージが、「二人とも止めましょうよ」って止めに入る、って凄いことですよ。

次に、2009年の二代目林家三平襲名へのたけしの祝辞。常識を超えたことを言う、誰もが思っていても口に出せないことを言う、これが笑いを起こすコツなんでしょうね。


「胎ろされもせず・・・」

三瓶師匠の財産を狙った「峰竜太」
林家正蔵の看板を狙った「春風亭小朝」
頭に注射を射ってしまった「泰葉」

「金とコネ」この二つだけで・・・

あ〜あ、楽しかった。

食料に関する洗脳を考える その4

果物を食べてみると、果物は種のまわりに甘さ成分を集める習性があるように思う。果物としては、種のために集めている栄養分であるが、人間には甘さとして感じるのだろう。現代人は、甘さというと、人工物である「砂糖」を基準に考えてしまうが、甘さとは植物の種のまわりに集める習性にしか、自然界には存在していないように思う。

砂糖は、サトウキビの甘さ成分を抽出して乾燥させたものにすぎないだろう。東南アジアでは、サトウキビではなく、豊富にあるココナッツの果実から、甘さを得るのが基本だ。バナナの甘さを利用する手もある。バナナは熱すると、甘さが増して美味しい。甘さを求める対象は、「砂糖」である必要はないのだ。先日、バナナの甘さを利用したアップル・スクランブルを食べたが、非常に美味しかった。東南アジアに住む西洋人のアイディアだと思うが、素晴らしいアイディアだと思った。

赤道近辺の地域は、一年中暖かいから、植物がよく育つ。ということは、食料は豊富にある。おもしろいことは、赤道付近の食料がよく育つ国々の通貨レートは、世界的に低い。その結果、豊富にある食料を、寒い地域の先進国が安く買い取る。それが、世界の構図、となっている。

同時に、赤道近辺の食料が豊富にある温暖な国々は、衛生面で問題があったり、危険な地域であったり、貧乏であったり、そういったイメージで洗脳されつくされている。それに加えて、最近はテロという言葉も加わった。仮に衛生面に問題があったとしても、豊富な太陽光線の下、それ以上に植物が元気なので、そういった植物を栄養にしている人は、免疫力は高く、もっと元気な気がする。貧乏であるのは、通貨レートが低く設定されているからだ。

多くの人が、自分で考えず、メディアから与える自動連想パターンを植え付けられてしまうので、その地域と強烈なイメージをくっつけて報道すると、そのイメージしか持たなくなる。だから、多くの人がそういう国に近づかないし、外国と言えば欧米に向かってしまう。まあ、私もそうだったから、他人の事をとやかく言えるわけではありませんが・・・。

2011年1月25日火曜日

食料に関する洗脳を考える その3

私の日本の田舎では、出荷されない人参、さつまいも、などが、収穫後の畑にゴロゴロ転がっている。JAが、規格外と呼ばれる大きさが異なる作物、傷が付いた作物、を買い取らないらしい。義務教育は規格外の人間を落第させるが、JAは規格外の作物を落第させて捨てる。だから、田舎の畑に行けば、落第した、規格外(傷が付いている、小さ過ぎる、大き過ぎる、ルックスが悪い等)であることをを気にしなければ、充分に食べられる食料は余っている。

食料の価格が高くなるのは、コトタマでいうイ次元である、命(イの血、イの地)のある作物を、ウ次元である競争原理の世界(経済)に無理矢理参加させるからである。本来公平である生命に対し、形、均一さ、甘さ、などで点数を付けて順位を付け、規格外は落第させ、価格を吊り上げ、食料不足を演出している。優等生だけが流通ルートに乗せられ取引される。まるで、義務教育のやり方と一緒だ。均一化させて、レールに乗せ、規格外は邪魔者として除け者にされる。

日本のメロン、トマト、スイカの甘さ、は異常である。甘さで順位を付けて、競争させて、異常に甘い作物は尋常ではない高額で取引させる。海外に滞在すると、メロンやスイカは安価な果物だが、日本のように甘さを求めてはいない。元来、水分補給の役割で食されるメロンやスイカに、甘さを求めるほうがおかしいのだ。

ただ、この責任は消費者側にもある。自然と離されて生活していると、泥が付いた野菜を嫌がったり、ルックスの悪い野菜を嫌がる。甘くないスイカを嫌がる。均一化された商品が並ぶスーパーでしか買い物をしない。均一化した思想を持った人間は、均一化した対象物としか同調しない気もする。

一昔前、日本ではバナナが高級品として扱われていた。東南アジアでは、バナナは価格競争にならないほど豊富にあるので、一房10円~20円程度からある。1本ではない、一房の値段だ。しかも、バナナの種類はすごい豊富だ。地元の人は、美味しくないバナナには見向きもしない。彼らは、私には分からない品種を見分ける目を持っている。日本には、ほんの限られた品種のバナナしか輸入されていない。しかも、あまり甘くない、美味しくない品種しか、輸入されていない気がする。

2011年1月24日月曜日

食料に関する洗脳を考える その2

一年中温暖な赤道付近の熱帯地域と比較すると、日本のような四季がある、いわゆる温帯地域では、寒い冬は植物が育たないので、保存食が必要である。日本の代表的な保存食は、漬け物、だろう。私は、野菜を軽く塩にまぶした浅漬けは、日本のサラダだと思う。添加物バリバリのドレッシングやマヨネーズではなくて、浅漬けで充分なのだ。

自然が素晴らしいのは、手間をかけなくても、豆類、米類は、天然の保存食だ。水に付けておくと柔らかくなり、豆類、米類は、発芽の準備を始める。そうして、人が食べられる状態に変化する。日本がなぜ古来から、米、豆を食してきたか、よく分かる気がする。

調味料ともなる醤油、味噌、は、豆類である大豆を原料とした保存食だ。私は、最近になって、本物の味噌は、ダシをとらなくても、味噌にお湯を入れただけでも美味しい味噌汁になる、ことを知った。スーパーで売られている大量生産品ではなくて、地方だけで売られている美味しい味噌を探すのだ。醤油も同様だ。

私は、ダシをとらなくてはいけない、というのは洗脳だと思っている。日本食にはダシをとらなくてはいけない、それは面倒、だから、簡単な市販調味料はいかがですか、という食品メーカーの陰謀だったように思う。その流れが、みりん、お酢、酒、味の素、そして、だしの素、その他各調味料にどんどん広がっていったのが現代食事情ではないだろうか。

ついでに、塩も海水を乾燥させただけの自然塩は、甘みがあって美味しい。料理は、原材料にこだわって、美味しい塩、醤油、味噌があれば、他の調味料はなくても、かなり美味しく出来上がる。料理は複雑な味付けが良いのではなくて、原材料の素材にこだわった単純な味付けが美味しいと思う。複雑なソースをつくるフランス料理よりも、素材を活かすイタリア料理やスペイン料理のほうが、自然に近いし、日本人の感覚に合っているように思う。

2011年1月23日日曜日

食料に関する洗脳を考える その1

ここタイに滞在していて、よく見かける光景は、タイ人は、注文した食べ物が気に入らないと、平気で残す。タイ人は、気分次第のア次元優先人種だから、食べたくないものは無理して食べない。本当によく残す。お皿の半分以上、残しているのもよく見かける。これは、温暖な気候なところは、食べ物が余っているから出来ることであって、日本人の感覚との違いを感じる。

日本では、「米粒を一粒残さずに食べる」ことが美徳とされる。そして、「お百姓さんに申し訳ない」という理屈も付いてくる。これだけで、一粒も残せないから「食料は不足している」と、食料はお百姓さんがつくるものであって「食料は自然界そのままに存在しない」、という二つの洗脳が自動的に働くように思う。

食べ物は、腐って、自然に還る。「もったいない」という発想は、それがお金に絡むと、正しいかな、とも思う。幾らかのお金で買った食物を、腐らせてムダにしてしまったら、最初に持っていたお金の価値はゼロになる。その感覚を「もったいない」と感じる。

でも、自然に育ったバナナが腐っても、またすぐにたくさん実がなることを経験上知っていたら、「もったいない」という感覚は生じない。腐っても、次のバナナがすぐにあるのだ。育てなくても、豊富にあるのだ。それが東南アジア諸国をはじめとした、赤道付近の国々だ。食料危機が嘘だということは、赤道近辺の地域に滞在してみると、すぐに分かる。私はまだほとんど行った事はないが、おそらくアフリカも同様だと思っている。

そう考えていくと、地域通貨である「腐るお金」という概念が、自然界とマッチするのもよく分かる。「腐るお金」というのは、使わなければ価値が減るお金だ。個人的には、地域通貨の問題点は、すべての生活必需品を、地域通貨だけで売買できない場合、どうしても現行のお金との関わりが生じてしまうところにある、と思っている。

特に、地域通貨で売買する距離が遠い場合、郵送料がその取引の大部分を占めてしまう。だから、本質的には、郵送料が必要ではない狭い地域内で、すべてとは言わないまでも、ほとんどの生活必需品を地域通貨の取引で賄えるようになれば、新しいタイプの自治体、本当の意味での独立国になり得る可能性は秘めている、と思う。

2011年1月21日金曜日

俊輔のフリーキック映像のおまけ

前回記事のYou Tube動画を検索していたら、俊輔のフリーキックの動画映像で、スタンドから観客が撮影された映像が、たくさんアップされていました。

スコットランドやイングランドはサッカー熱が凄いですし、もっと真剣に試合を見入っているのかと思いきや、俊輔がフリーキックのチャンスを得た瞬間、観客は肉眼ではなくて、こんなにたくさんの観客がカメラを通して試合を見ているのか、と考えると笑えます。

そういった素人映像が、ほんとに、たくさんあるのですが、幾つかピックアップしてみました。まずは、マンチェスターでの俊輔の同点ゴール。アウェイでの同点ゴールなので、スタンドの反応は静かです。


次は、セルティックのホーム、グラスゴーで、セルティックがマンチェスター・ユナイテッドに1対0で勝って決勝トーナメント進出を決めた試合、の俊輔のフリーキックです。ゴール裏の席からの映像なので、ゴールを入れた後も、まだしっかり撮影されています。


これは、同じ場面ですが、ゴールの真横から、良い角度で撮影されています。ゴールを入れた直後の映像が笑えます!


次も同じ場面ですが、スタンドの低い位置からの撮影です。下の席は、ゴール後はもう大変です!!


最後に、2007.4、俊輔のロスタイムのフリーキックで、優勝を決めたキルマーノック戦のゴールです!


ゴール裏の席は、もう大変!!

中村俊輔のフリーキック動画集

今晩、サッカー日本代表は、アジアカップ準々決勝のカタール戦を控えています。今回のアジアカップで、日本代表がグループリーグで惨敗でもして、惨めな負け方でもしたら、再び、俊輔待望論、みたいなのが再燃するかと思っていました。今日の結果、そして、最終的な結果は分かりませんが、そこまで惨めな結果になりそうな気配はありませんね。

さて、You Tube動画で、中村俊輔のフリーキック動画をいくつか見つけました。俊輔が決めるフリーキックは、非常に美しいので、こういったYou Tube集にすると、非常に目立ちます。

では、印象に残っている俊輔のフリーキックから、まずは2003年コンフェデ杯でフランス相手に決めたフリーキック。


続いて、セルティック時代の06-07UEFAチャンピオンズリーグの予選リーグ第1節の対マンチェスター・ユナイテッド戦(アウェイ)で、2-2に追い付く同点ゴールです。


続いて、決勝トーナメント進出がかかった、第5節、同じく対マンチェスター・ユナイテッド戦(ホーム)でのゴールです。


この俊輔のフリーキックによる1対0の勝利で、セルティックはチャンピオンズリーグの決勝トーナメントに進出したのでした。これは、セルティックのファンにとっても、歴史的な勝利だったと思うのですが、これが現地解説だと、こういった感じになります。非常におもしろいです!


英語のお勉強のために、原文を掲載しておきます。

oh,Japanese boy, oh, high,oh my goooooooooooddddddddddddddddd!­!!!!!!
It is the moment for the Japanese boy!!!!!!!!
He, the boy is hero!!!!!!
He's picked the United sold the game!!!!!!!
Watcha goal from Shunsuke Nakamural!!!!!!
Wonderful day, Celtic!!!!!! Amazing!!!!!!!!

そして、セルティックが、06-07シーズンの優勝を決めた、キルマーノック戦のゴール! このロスタイムのゴールで、優勝を決めたのでした。


最後に、フリーキックではありませんが、07-08シーズンの終盤、ライバルであるレンジャーズ相手に決めたミドルシュート。


良い場面だけを集めたから、というのもありますが、俊輔は華がある選手ですね。

2011年1月20日木曜日

「よりどころ」 は、日本語「コトタマ五十音図」

島田正路氏のコトタマの本を読んで、五十音図の解釈を見て、日本人の「よりどころ」は「五十音図」にある、と思った。何も難しいものではない。日本人誰もが知っている、アイウエオの「五十音図」だ。それを、現実認識の「よりどころ」に使うのだ。


上図の五十音図は、私たちが普段使う五十音図とは、母音の並びが違っているだけだ。一番、右側のアの段が、自分自身。一番、左側のワの段が、対象物。真ん中の八つ(※この数字が重要)の段から、八父音を取り除いたのが32子音(しおん)。両側がなくて、真ん中の八つしか知らない者がシオンである八幡様。

それを司っているのが須佐之男命で、祭っているのが八坂神社。八が付く数字は、この関係が多い。人名も同じ。ハタは、八つの田(田は五十音図を指す)。だから、政治家のハタが付く名前はその子孫。ハトも似たような者。では、前首相の名前は? ハッタリ、って、言葉もある。彼らがやりそうな行為だ。

ダジャレのようだが、日本語はほんとによく出来ている。日本人なら誰でも日常的に使っているのが日本語。その日本語コトタマが、日本人にとっての「よりどころ」となるのですよ。そういった意味で、私は「コトタマ教」信者なのです。

長くなりましたが、最後まで読んでいただいた方、有り難うございました。

「欧米か!」から日本語「コトタマ」へ

その後に流行ったスピリチュアルは、チャネリングに代表される「他力本願教」になって全然違う方向に流れたけど、「自分教」スピリチュアルの問題点は、対象に対する認識が甘いところにある。柵に囲まれた羊に、柵を見せないで「あんたたち、幸せでしょ」と言わせているようなイメージだ。だから片手落ち、なのだ。

では、なぜ片手落ちなのか? その原因は、相手に見えるものは自分にもある、という「投影」の解釈が邪魔をしている。「自分教」スピリチュアルでいう「投影」とは、相手に見える問題点は、自分のフィルターに問題がある、つまり自分に問題があるからであって、自分のフィルターを修正して、それで終わりなのだ。だから、もし自分が本当に正直者で、相手が嘘つきだったら、相手の嘘を見破れない仕組みになっている。

ユタはゴイに平気で嘘をつく。日本人はお人好しだから、相手が平気で嘘をつくとか、人類という言葉の範囲が極端に狭い、という相手の概念が理解できない。相手は人間と思っていないから、動物と同じだから、肉食で屠殺するのと同じように、平気で人間を殺せるのです。人間と思っていないから、動物を家畜にするのと同じように、人間も柵に入れて奴隷にできるのです。だから、故太田龍氏は、家畜全廃論に繋げたのです。

私はその後、「陰謀教」となって、いろいろな本を読んだ。それまで信じていた対象に関する情報を、もう一度疑ってみるのが「陰謀教」だ。その途中で、すべて欧米のものを追い掛けていることにも気が付いた。これは、マスコミに徹底的に鍛え上げられた「欧米教」の影響であるが、多くの日本人が最先端はすべて「欧米」にある、と洗脳されつくされている。

見事に現代日本人の本質を突いていた。だから笑いが取れた。

そして、日本にもともとあった知恵、「コトタマ」に行き着く。「五十音図」に行き着く。私が幼稚園生の頃、お気に入りの下敷きは、五十音図の下敷きだった。平仮名を覚えるための、あいうえおの下敷きだった。すっごい遠回りしたけど、もともと「よりどころ」は一番近くにあったのだ。「灯台下暗し」というヤツだ。 --> 続く

「自分教」だけでは片手落ち

世界的に見ると、日本以外の国には、「宗教」があり、それが「よりどころ」となっているようにみえる。しかし、日本には宗教はない。一応、葬式の時だけ仏教徒になり、結婚式の時だけ神式やキリスト教徒になるが、普段の生活で宗教を意識することはない。世界にも珍しい無宗教の国だ。

それで、宗教というものの存在がよく分からなかったので、当時、いろいろと調べてみた。その頃、音楽好きの影響でゴスペルに関わった関係もあり、バプティスト派のキリスト教に潜入したことがある。でも、彼ら黒人にとってゴスペルという音楽は礼拝であって、どうやら神、ジーザスを本気で信じているみたいなのだ。そう、彼らにとっては、ジーザスが「よりどころ」なのだ。冗談じゃなくて、ほんとに本気なのだ。ほんとに信じられないくらい、本気なのだ。

私のような日本人にとっては、ジーザスは「よりどころ」にならない。それで、新しい「よりどころ」を探し始めた。最近、流行っているスピリチュアル・ブームの前の時代、本屋には「精神世界」というコーナーがあって、そのジャンルの本をよく読んだ。そのメインテーマは、自分を「よりどころ」とする「自分教」だ。自分自身が感じたことが「よりどころ」であり、自分が信じることが「よりどころ」であり、自分が「したいことをする」のが「自分教」だ。なるほど、と思った。

その「自分教」だけでも、自分だけの生活くらいだったら、かなり上手くいく。個人的には満足できる人生になる。だが21世紀に入り、ほんと9.11の瞬間に、世界が変わった。それまでの「自分教」だけでは、世の中で起きている出来事を説明しきれないのだ。その時初めて、私の目の前に「陰謀教」が見えてきた。

そして同時に、「精神世界」や「スピリチュアル」の「物差し」である「自分教」だけでは、片手落ちであることが分かった。コトタマ学でいうと、「ア」側しかなくて、「ワ」側がないのだ。「ア次元」だけで「エ次元」に至っていないのだ。対象物を測る「物差し」、状況を解釈する「よりどころ」が不充分だから、世界で現実に起きていることを正確に解釈できない。「自分教」だけでなく、「陰謀教」という対象を理解するための「物差し」が必要だったのだ。 --> 続く

義務教育で「正解」を外側に求める悪癖がつく

私にとって、義務教育の間は、「よりどころ」は「正解」にあった。何が正しくて、何が間違っているか? 文部省(旅すとっく)が決めた「正解」を答案用紙に書いていれば、テストの点数は高く、成績も良く、まわりからも褒められて、その流れで大学まで卒業した。「学校教」とでも言うのだろうか。(子供は未熟者だから勉強が必要な存在で「正解」は大人が知っている、ことになっている。だから、答えを外側に求めるおかしな習慣が身に付いてしまう)。

しかし、そのまま一般企業に就職して社会人になった時、何かがおかしいと思った。その時に初めて「疑い」を感じたのだ。一つの会社に終身雇用で、定年退職して、生涯年金をもらう人生を選ぶなら、会社を「よりどころ」にしても構わないだろう。実際、多くの人がそうだったのだと思う。

でも、私にはそれはイヤだったのだ。「若いうちに、好きな事をしたい」「まだまだ、やりたい事がある」「定年まで待つ、なんてマッピラだ」、そう、会社が「よりどころ」にはならない、「会社教」に入信することだけは出来ない、とすぐに分かったのだ。

同期入社で、入社式1日だけで辞めた人間も居る、と聞いた。すごく良い勘を持ったヤツだったんだろう。私には、まだそこまでの勇気はなかった。今思うと、それは「よりどころ」がなかったから。自分の「疑い」を判断する正確な「物差し」がなかったから。自分の状況把握に確信が持てなくて、次の行動が決められなかった。

その頃、私は、「疑い」を感じていることを、親、友達、同期の連中、によく話した。あとから思えば、完全に「愚痴」だ。酒を飲みながら、電話をしながら、もう「愚痴」ばっかり。「愚痴」とは、自分が抱えている「疑い」に対して、話を聞いてもらって、その答えを外側に求めている状態だろう。でも、当然、外側に答えを求めても、明確な答えなど誰も持ち合わせていない。

これが義務教育の悪い癖だ。自分以外の他者に「正解」を求めてしまうのだ。そう、答えは、自分で出す、それしかないのだ。今でこそ分かるが、まわりが「正しい」ことを選択するのではなくて、自分が「したい」ことを選択する、それが自分にとって「正しい」こと、なのだ。それが「ネコネコ教」信者の教義なのだ。

コトタマ学では、「正しい」は理屈だからオ次元で、「したい」は欲求だからウ次元である。どちらを極端に優先すれば良いということではなくて、バランスが大切だ。ただ、一般的に日本人は理屈(オ次元)が優先されすぎているので、欲求(ウ次元)を優先するくらいが、ちょうどバランスが取れる気がする。 --> 続く

「よりどころ」とは、「物差し」であり「神様」である

日常生活の中で、生きていく中で、人生の中で、人には「よりどころ」が必要だ。なぜなら人生は「判断」の連続であり、判断するためには、その時の状況を把握する「物差し」が必要だからだ。その「物差し」が「よりどころ」となる。

同時に、「よりどころ」は「神様」となる。それが判断の基準になるからだ。テレビの言う事を信じている人は、テレビの情報を「よりどころ(神様)」にして、物事を判断する、「テレビ教」の信者だ。軍隊の兵士は、命令を「よりどころ(神様)」にして、命令があれば、人も殺せるし、特攻隊も出来る。「愛国教」とでも言うのだろうか。

そして、戦前の日本は、天皇が「よりどころ」だった。天皇を「神様」にしている「天皇教」だった。天皇のためだったら、命令で「死ねた」。

第二次大戦後の日本は、爆撃による荒廃、食料・物不足だけでなく、「よりどころ」であり「神様」であった天皇が、急に「象徴」というお人形様になってしまい、「よりどころ」を失って、何を頼りに生きていったら良いのか、相当戸惑ったのではないだろうか? そして、戦後、物の復興と同時に、精神的には、新しい「よりどころ」を探していたのではないだろうか? 

その流れで、昭和30年代に登場したテレビを「よりどころ」とした「テレビ教」という新興宗教があらわれ、昭和40年代の高度成長期には会社を「よりどころ」とした「会社教」という新興宗教があらわれた。そう解釈すれば、なぜ親の世代があそこまで「テレビ教」なのか、なぜ団塊の世代はあそこまで「会社教」なのか、説明がつくような気がするのだ。 --> 続く

2011年1月19日水曜日

クアラルンプールLCCTの地図

昨年12月に、格安航空会社エアアジアが羽田空港からマレーシアのクアラルンプールへ就航しました。

エアアジアが到着するクアラルンプールの空港は、LCCT(ロウ・コスト・キャリア・ターミナル)で、マレーシア航空等、通常の航空会社が利用するKLIA(クアラルンプール国際空港)とは若干離れたターミナルです。

私は、羽田便就航前に、エアアジアでLCCTをもう何度も利用していますので、一応、今までの経験で簡単な地図を作成してみました。


より大きな地図で クアラルンプールLCCT周辺地図 を表示

地図としては、wikimapiaも使えます。Google Mapには、ない情報があったります。

今後、クアラルンプールのLCCT(ロウ・コスト・キャリア・ターミナル)を利用する日本人はかなり増えると思われますので、参考になれば幸いです。

2011年1月18日火曜日

競争原理(ウ次元)と経済活動

コトタマ学でいうウ次元とは、基本的に「欲求」であり、「競争原理」であり、「経済活動」もウ次元に含まれる。なぜなら、「経済活動」は「売る」「得(ウ)る」、つまり、「ウがする」動きだからである。

日本の法律には、一応、名目上は、独占禁止法があり、各業界でライバル会社が争っている(ことになっている)。自動車業界ならトヨタ、日産、マツダ、等々。電気業界なら東芝、日立、松下、シャープ、等々。ビール業界なら、キリン、アサヒ、サッポロ、サントリー、等々。テレビ業界なら、日本テレビ、TBS、フジ、テレビ朝日、等々。

テレビ業界でいう電通のような双頭の鷲的な立場に居れば、すべてを牛耳っている立場で物事を見ているだろう。しかし、おそらく各々の会社の内部にいる従業員にとっては、ライバル感を煽られながら、仕事をしていることだろう。あちらのメーカーはこんなのを作った、あちらのメーカーに先に特許を取られた、というように。そこには、まさしく「競争原理」が働いている。

「経済活動」における「競争原理」は、大企業に限った事ではない。個人商売であっても、価格と品質という両面で、競争を強いられている。消費者は、同じ品質ならより価格が低い商品を買うし、価格が同じなら品質の良い商品を選ぶ、のは当然の選択だ。立地条件や、品数の多さも、店としての品質のうちだろう。

そうやって、日本では、大型スーパー、100円ショップ、ユニクロ、の登場により、市場や、商店街は消えかかっている。個人商売で、大企業に互角な勝負を挑んでも、勝てるわけはないのだ。「競争原理」なので、どうしても勝ち負けなのだ。その結果、競争原理に支配された経済活動は、どうしても大企業に負け、吸収されていく。商店街の一人の店主が、大巨人アンドレに勝てるわけがないのだ。


では、経済活動における競争原理のメリット、とは何か? 日本の自動車業界、電気業界等は、間違いなく便利な商品をつくり、私たちの生活に欠かせない物をつくりだしている。車は便利な道具だ。パソコンも便利な道具だ。冷蔵庫・洗濯機はなくてはならない物となった。それが、コトタマ学でいう科学物質文明の発達で、第二文明を謳歌している最中と言える。

コトタマ学では、ウ次元の競争原理がなければ、個人のみの幸せ(縄文時代のような科学物質文明のない幸せ)で満足してしまって、化学物質文明をつくることができない。だから、「競争原理による天下統一」という方便をつかって、その役目をユダヤにさせた、と言われている。でも、まだ物質科学文明も完成せず、人類の幸せからも離れてしまったまま、第三文明には至っていない・・・、とそう解釈している。では、スメラミコトは、この先、どうオチをつけるつもりだったんでしょうね・・・。

2011年1月17日月曜日

競争原理(ウ次元)とスポーツ

コトタマ学でいうウ次元は「欲求」「競争原理」「経済活動」などに代表される。このうち、「競争原理」を理解するするのに一番分かりやすいのは、スポーツだろう。特にトーナメント制に、「競争原理」が見事にあらわれている。

日本人にとって、一番なじみのあるトーナメント制は、夏の甲子園、高校野球だろう。甲子園で開催される高校野球には、毎日新聞主催の春の選抜大会と、朝日新聞主催の夏の選手権大会がある。特に夏の大会は、地方大会から完全なるトーナメント制で、各都道府県の代表を決める。

夏の甲子園が始まる前、8月初め頃の時点では、甲子園出場を果たした各都道府県代表の高校だけが、まだ一度も負けていない。そして、8月第2週頃に、夏の甲子園大会が始まる。そして8月20日頃、優勝校が決まる。その優勝校のみが、県予選から、甲子園の全国大会まで、唯一、一度も負けなかった高校になる。それが、トーナメント制だ。

トーナメント制は、テレビ中継もされ、新聞報道もされ、表にあらわれている「競争原理」だが、おそらくチーム内では、レギュラーを取る、ベンチ入りする、ための凄まじい「競争原理」が働いていることだろう。野球のレギュラーは9人。高校野球の場合、レギュラーが一桁の背番号を付ける。エースは1番、キャッチャーは2番、ファーストは3番、・・・というように、外から見ていてレギューラーと控えの烙印が、背番号にはっきりと押されている。改めて考えてみると、かなり過酷な環境だ。

プロの世界でも、日本のプロ野球は70人しか支配化選手登録ができないので、華やかなドラフト指名選手が入団すれば、陰ではそれと同じ数の選手がクビになっている。マスコミが報道するのは華やかな一面だけなので、ほとんどスポットライトを浴びる事はない。ここに、イス取りゲームならぬ、凄まじい「競争原理」が働いている。

「競争原理」のメリットは、お互いが負けないように競い合うので、技術のレベルが上がる。また、トーナメント制は、一度負けたら終わりというバクチ性が、非常にゲームに緊迫感を与える。特に、ベスト8が出揃った準々決勝以降は、お互いにレベルが拮抗してきて、試合が非常におもしろくなる。サッカーのワールドカップや、チャンピオンズリーグも、同じような仕組みだ。

私は密かに、カバラというのは秘儀でもなんでもなくて、トーナメント形式の「競争原理」を指すのではないか、そして、その象徴がピラミッドではないか、とずっと思っている。ヤツらは、一番秘密にしておきたいことは、一番目立つところに置いておくことが好きだからね。

競争原理(ウ次元)による天下統一と雑草魂

昨日、1月16日のKazumoto Iguchi's blogのついに日本人も立ち上がったか!?:「上杉機関」の健闘を祈る!の記事の中で、次の一文がありました。

「ユダヤの思想には、善と悪をゲームとして再現し、その内部倒立と統率、対立をさせて殺し合わせ、「競争」によって豚人種を管理するという言葉がある。」

ちなみに、そのまた引用元は、ブログ上杉機関 本館というブログです。

故島田正路氏のコトタマ学では、スメラミコト(天皇)は、競争原理(カバラ:ウ次元)によって天下統一を果たすよう、モーゼ(ユダヤ)に通達された。競争原理による天下統一は、精神のみ充足した第一文明から、科学が発達した第二文明を経て、精神・科学両面において充足・発達した第三文明が発足する、ための方便であって、現在は科学文明がまだ完成していない第二文明の過程にある、という解釈をされていました。

スメラミコトのイ次元から見ると、ウ次元だけでの天下統一は無理な事です。それは、図形でいうと、ウ次元は三角形、オ次元は四角形、イ次元は円で表されます。イ次元の円が宇宙のすべてを表すので、ウ次元の三角形は円に内接する三角形、オ次元の四角形は円に内接する四角形になります。

これは具体的にどういうことかというと、例えば作物を畑で育てる、には決まりを作って整然と並べていきます。これがオ次元(四角形)の動きです。でも、雑草は生えてきます。畑の管理者から見ると、これは邪魔で邪魔で仕方ありません。この雑草が、円に内接する四角形の外側の部分で、かつ、円の内側の部分です。これは、「決まり」「規則」(オ次元)の四角形で囲っても、囲いきれない部分(イ次元)が必ずあり、囲いきれない部分から雑草という命(イの地、イの血)が生えてきます。どこからでも、雑草は生えてくるのです。

ユダがゴイの人口削減を企むのは、この雑草を取りたくて仕方ない、そんな動機から生じているように感じています。蚊を殺しても殺しても出てくる、蟻をつぶしてもつぶしても又出てくる、そんな心境だと思います。でも、雑草魂は不滅なのです。抜いても抜いても生えてきます。

ウ次元も同様です。ウ次元の競争原理で、ピラミッド型の組織や、階級の仕組みに人類を組み込もうとしても、はみ出る人間(フリーター)が出てきます。ウ次元の三角形では囲いきれない部分(イ次元)の命(イの地、イの血)が、必ずあるのです。そう、雑草魂は不滅なのですよ。

メジャーの日本人選手に対する評価 その3

2001年、日本人の外野手として、最初にメジャー入りしたイチローは、新人王はもちろん、MVP、首位打者、盗塁王、最多安打という衝撃的な活躍をしました。その活躍があったから、日本のパワーヒッター松井秀喜も、ヤンキースと3年契約し、その3年間は毎年100打点以上という安定した活躍をしたので4年の契約延長を勝ち取りました。

イチロー、松井秀喜の活躍があったので、2004年には松井稼頭央がかなり良い契約でメッツに入団しました。日本人ならば、イチロー、松井秀喜、と並ぶ選手など、日本プロ野球界にいないことなど知っていたのですが、当時は松井稼頭央のことをリトルマツイと呼んで、イチローのような足と、松井秀喜のようなパワーを併せ持った選手、と勝手に評価を高く見られてしまったのです。メッツファンの松井稼頭央に対するブーイングは、投資効率に合っていない、というブーイングだったのです。

その後、外野手としては、2008年に福留孝介選手がカブスと$48Mの4年契約をしました。メジャーの世界では、1年あたり$10M(約10億円)以上の選手がスター選手です。その評価で入団したのは、イチロー、松井秀喜と同等の選手、という評価を受けて、入団したわけです。しかし、残念ながら福留選手は、その投資に見合った活躍はしていません。福留選手を見ていて、もどかしいのは、そのあたりの事情が呑み込めていないように感じるのです。

その他、内野手としては、井口、岩村、の二人がレギュラーとして活躍しました。しかし、1年あたり数億程度の現実的な契約で、それなりにレギュラーとして活躍した年もありましたが、二人とも契約延長には至りませんでした。投資効率が良かった、として評価されるから再契約されるのであって、そうやって考えてみると、本当にメジャーで成功したと言える日本人野手は、同程度の契約延長を勝ち取っているイチローと松井秀喜しかいないのです。

今後は、福留選手が日本人野手の評価を落としたので、日本人野手の契約は現実的な$2M〜$5M程度でしょう。西岡選手の契約も1年あたり$3Mの3年契約、と伝えられています。とても、現実的な契約です。ぜひ西岡選手には、このあたりの評価を上げてきてほしいですね。

メジャーの日本人選手に対する評価 その2

メジャーの評価は投資効率です。投資に対して成績が上回れば「良い評価」、投資に対して成績が下回れば「悪い評価」になります。ここ数年の結果から、日本で活躍している右のリリーフ投手に対して、最初から年間数億のメジャー契約ではなく、年間数千万円のマイナー契約にしておく、という動きになっています。リスクマネジメントから考えて、当然と言えば当然の動きです。

そんな中、ロッテからFAした小林宏之投手が、「メジャー契約じゃなければ行かない」と言っているのです。他人の話なので、どうでもいいのですが、どうもその発言に違和感を感じています。どうしても「アメリカに行って、本場メジャーでやってみたい」という意気込みが感じられないのです。

今の状況で、どうしてもメジャーでやりたいのなら、昨年の高橋尚成投手のように、実績を残してマイナー契約からメジャー契約を勝ち取るしかないのです。プロのスポーツ選手は、まわりの評価で価値が決まる、ので、「一度、評価を聞いてみたかった」だけかもしれません。それなら、そうコメントしてくれていれば、何の疑問もないのですが・・・。

外からの評価は時代によって変わるので、タイミングの問題もあります。タイミング、という言い方も語弊がありますが、直前にメジャーに行った同じタイプの選手が活躍した後は、良い契約が取りやすい、というだけの話です。それは、サッカーの世界でも一緒でしょう。今は、前に行った右のリリーフ投手が評価を下げた後なので、小林宏之投手への評価を上げるとしたら、自分自身で上げるしかないのです。 --> まだまだ続く

メジャーの日本人投手に対する評価 その1

メジャーの日本人の右投手に対する評価は、ここ数年でガタ落ちしました。2008年にメジャー契約した小林雅、薮田、福盛、2010年の五十嵐、と、年間数億円の投資に対して、ほとんど1軍で活躍できませんでした。右のリリーフ投手として活躍しているのは、日本では主に先発だった上原浩治投手と、マイナー契約から這い上がった斉藤隆投手のみです。

日本でもアメリカでも、良い投手から順番に、先発、クローザー、セットアッパー、ロングリリーフ、負け試合に投げるモップアップ、という役割を分担していくでしょう。先発、クローザーは適正もあるので、どちらが優れている、とは一概に言えませんが、クローザーの次のレベルの投手がセットアッパー、そのまた次のレベルの投手がロングリリーフや負け試合に投げる、ことになります。

その中で、日本人がメジャーで通用するとしたら、トップレベルの先発、クローザーのごく一部、それと、リリーフ投手なら左投手、という見方になってきた気がします。近年、日本のエース級の先発投手でさえ、松坂はローテーション入りギリギリの状態、井川はずっとマイナーで飼い殺し状態、セリーグを支え続けた黒田、上原、川上、の3投手でさえ、メジャーで立派に先発投手として活躍しているのは黒田のみで、川上も40人枠から外れて、今年は契約は残っているのにメジャーの戦力構想には入っていないという、飼い殺しの可能性を秘めた危険な状態です。

近年、活躍した岡島投手や高橋尚成投手は、左のリリーフ投手です(高橋尚成投手は、昨年先発もしたが、リリーフの評価のほうが高い)。今オフ、元日本ハムの建山投手がテキサスレンジャーズと契約しましたが、日本人特有の横手投げ投手だから、と言われています。その建山投手でさえ、メジャーの資格がある40人枠には入っているけど、1軍25人には保証されていない契約です。実績を残して、競争でメジャーを勝ち取る、しかないわけです。 --> 続く

2011年1月16日日曜日

解決の鍵は「疑問」(エ次元)

そう、一生、「疑問」に思わなければ、それはそれで幸せな人生かもしれない。だから、逆を言えば、鍵は「疑問」だ。「疑問」を感じたら、その「疑問」をとことん追い詰めることだ。

まず「疑問」を感じたら、「知識」「理屈」「常識」「周囲の評価」(オ次元)をとりあえず静かにさせて、「疑問」を感じた対象に注意の焦点(フォーカス)を伸ばし、じっくりと吟味して、いろいろと調べてみることだ。その行動は、エ次元の動きだ。

問題は、対象の「疑問」解きの興味エネルギー(エ次元)が、「知識」「理屈」「常識」「周囲の評価」(オ次元)の拘束エネルギーを上回る事だ。オ次元の拘束エネルギーが上回ると、元の状態に戻ってしまう。

一般的に、「知識」「理屈」「常識」「時間」(オ次元)で、知覚(エ次元)を否定する。これが、大多数の日本人の意識構造だろう。これが逆転して、エ次元の「疑問」の謎解きエネルギーが、オ次元の拘束エネルギーを上回ると、対象に対する新しい理解が得られるだろう。

その時得られた「対象の理解」は、オ次元で持っていた「知識」ではない。オ次元の「知識」は、対象にまで注意が行き届いていない「間違った理解」だ。思い込みだ。対象にまで注意が行き届いた上での「対象の理解」は、「正しい理解」(エ次元)だ。コトタマでは、「実相」は万人にとって、一つ、だ。それはエ次元の意識になって、初めて共有できる。

「対象」を知れば、自ずと行動は変わる。私は、ある食品の原材料を知った途端、ずっと止められなかった甘いお菓子もすぐに止められた。「対象」を知れば、食べる気にはならなかった、ので、まったく無理はなかった。

その前段階として、まず、「疑問」を感じなければ、可能性がない。だから、抱いた「疑問」を「理屈」で封じ込めたりせず、とことん対象を調べてみると良い。それしか、解決策はないだろう。

反対に、「疑問」を持っていない人に、無理に話をしても、話が通じない。興味、関心事、注意の焦点(フォーカス)が当たっている物事が違うのだ。相手は、エ次元以外のオ次元、ア次元、または「欲求」「競争原理」優先のウ次元を優先して生きている。それを理解して接すれば、何も問題ない。

義務教育は、オ次元優先の訓練コース

もともと義務教育というのは、AといったらB、CといったらD、というように、大多数が同じような反応を示すように、しかも当人はそれが自分の考えであるかのように信じ込ませる、訓練をする過程である。そして、よく訓練された生徒がテストで良い点数を取り、良い成績を取り、親や先生などまわりの人から褒められる。

例えば、明治維新に対する解釈も、坂本龍馬に対する解釈も、教科書を作成した側の解釈を答案に書くと、良い成績が取れる。仮に、坂本龍馬はグラバーにそそのかされた、なんて答案に書いたら、先生はどう反応するんだろうか?

<参考>THINKERサイトの日本人が知らないニッポン

この自動的な連想パターンがオ次元の構築であり、構築されたオ次元の完成度が高い生徒を優等生扱いするわけだから、日本人がオ次元優先になったのも当然と言える。ア次元優先の生徒など、出来の悪い生徒として、親にも泣かれ、叱られ続けてきたことだろう。

では、なぜ訓練するのか? そのほうが、支配者にとって、好都合だからである。訓練された生徒にとって好都合なわけではない。チャイムが鳴って、無条件反射で生徒は席に座る。私はこの光景を思い出す度に、羊とカウベルの関係を連想してしまう。

成績の良い、よく訓練された(オ次元優先)の生徒が、大学まで進学する。大学を卒業したら、そのまま会社に就職する。ずっと、「時間」に拘束されながら。自ら満員電車に乗って。会社にとって、よく訓練された自主的に動く労働者は重要だ。一生、「疑問」に思わなければ、それはそれで幸せな人生かもしれない。

オ次元優先の日本人

タイに滞在していると、日本人がコトタマでいうオ次元に支配されている人種であることがよく分かる。オ次元というのは、「知識」「理論」「法則」「常識」「法律」の次元で、日本人は、このオ次元を動機として行動している人が多いように思う。

一方、タイ人を観察していると、ア次元を優先している人が多いように見える。ア次元というのは、個人的な「快楽」「快感」「幸せ」の次元で、タイ人はとにかく理屈(オ次元)を優先しない。タイ人は気分が乗らなければ仕事などしない(日本人は時間になったら仕事に行く)、食べたい時に食べる(日本人は時間になったら食べる)、というような違いだ。「時間」によって動くのも、オ次元に支配されている動きだ。簡単に言うと、「気分」によって動くのが、ア次元の動きだ。

例えば、市場で、売り場で昼寝しているおじさん、おばさんを、よく見かける。昼寝をしているのは、売り手側のおじさん、おばさんだ。こちらが何か買おうと思っても、売り手側のおじさんが寝ていて、お金を払えない。見かねた隣のお店のおばさんが来て、お金を受け取ってくれる、というシーンがよくある。仕事中でも、眠ければ寝る。「気分」のア次元優先だ。

「気分」によって動く、などと言うと、多くの日本人は、それじゃ仕事にならない、という反応が出てくるだろう。もうその時点で、仕事とは○○であるべきだ、という「理屈」「常識」(オ次元)に支配されている。

また、タイ人は、雨が降ってきたら、外に出掛けるのを遅らす。時間を守らなければいけない、という「時間」「規則」の考え(オ次元)など弱いものだ。自然に忠実、と言ったらそれまでだが、雨の中出掛けたくない「気分」(ア次元)を優先させている。

それが良い悪いはともかくとして、ここが、多くの日本人がタイ人を理解できない原因だろう。一般的に、日本人はオ次元を動機に行動する事を(人間として)当然、と思い込んでいる人が多い、ように思える。他の次元を理解し、どの次元を優先させているか、を理解していると、腹が立つ事はない。

2011年1月15日土曜日

Twitterを使ってみた感想 その2

Twitterに否定的だった私が、突然、急に、始めてみたくなったのです。理屈ではなく、なんとなく面白そう、なんとなくワクワクする、そういう感覚を感じたから。

面白い、ワクワクする、と感じる意識の仕組みは、自分が既に知っているもの、既知の範囲の外側にあります。一方、つまらない、退屈だ、という感覚は、自分が既に知っているもの、既知の範囲の内側だけに留まっている時に感じます。

ブログやHTML形式のホームページで文章を書く、という行為は、自分が既に知っている知識の範囲内を、文章に表現したものになると思います。読んだ人にとってそれが知らないことであれば、読んだ人の既知の範囲は拡がります。だから、それはそれで意味もあるし、価値もあることです。

でも、書いている本人にとって文章を書く行為は、自分の意識の枠の中にあるもの、既に知っている事を、形、順序を整え、まとめたり、整理するためには役立ちますが、面白み、ワクワク感があるか、というと、そういう感じではない気がします。それは、既知の範囲内で書こう、としてしまうからだと分析しています。

相手が何に意識のフォーカスを当てているか、を探るには、相手のTwitterを探るのは、良い方法だと思います。なぜなら、相手の反応が見えるから。どんな事件に、どう反応するか、自動的反応、自動的連想パターンがはっきりと分かるから。

でも、相手はともかく、自分にとってTwitterを使う利点。それは、自分の発想のヒント、ひらめき、を拡げるツールとして使えそうだ、という感じです。

Twitterで自分の中の自動的反応、連想パターンを外に、おもしろそうな方向に拡げる。ワクワクする方向に拡げる。既知の枠を拡げて、可能性を拡げる。その後に文章に残す。その時は既知の範囲内の行動になる。そのための場所が必要、ということで、BLOGスタートとなりました。

ちゃんちゃん。

Twitterを使ってみた感想 その1

私は、新しく流行りだしたものに、なかなか飛びつかないタチなので、数年前にブログが流行りだした頃も、HTML形式のホームページにこだわっていました。最近のTwitterブームも、ブログやホームページで長い文章を書けなくするための陰謀だと、決めつけていたので、見向きもしませんでした。

他人のTwitterを見ると、その人が今現在、何に注意の焦点(フォーカス)を当てているのか、一目瞭然です。ブログは日記形式がほとんどなので、その人がその日に行動した中で印象に残った事、という程度しか分かりませんが、Twitterの場合、その瞬間、フォーカスを当てている事が分かってしまうのです。

マジック(手品)というのは、観客の注意の焦点(フォーカス)を一カ所に集めておいて、誰も注意の焦点(フォーカス)が当たっていないところで物事を起こす、仕組みです。手品の場合はビックリします。残酷な出来事の場合、トラウマとして残ります。

9.11だって、誰もあんな出来事が現実に起きるとは、想像すらしていませんでした。そういった中で、大事件を起こす。神戸、新潟の地震はもちろん、2004年の津波しかり、ロンドンのバス爆破や、スペインの電車、バリのディスコ、も同様です。だからこそ、その大事件が切っ掛けとなり、問題→解決の手法で、まるでマジックのように世の中を変えられてしまう。

そういった意味で、自分が長時間、Twitterをやるのだけは避けたいな、とは今でも思っています。相手に手の内は見せてはいけない、なぁ〜んてね。 --> 続く

隣人もBLOGデビュー

Twitterだけでは、文字数に限りがありすぎるので、ブログ形式も平行して書くことにしました。

Twitterをやってみて感じたことは、ひらめきをメモするには、非常に良いツールですね。でも、書きたいことを書き切るには、どうしても文字数に限りがある。

その辺りを、BLOGでカバーしていきたい、と思っています。