前回記事でのドイツの原子力関係者も、日本の政治家や東電もそうですが、組織のお偉い人間はピラミッド型の三角形に支配されているので、相手(大衆)を見るわけではなく、ピラミッドの上からの意向を、さも自分の意見のように自信満々に言います。コトタマでいうと「ウ」次元の動きです。欲、金(経済)、競争原理、生存競争、を動機とした動きをします。
そもそも競争原理ですから、相手を助けるようなことはせず、組織のトップの意向に沿うロボットです。そういった血も通わない支配されたロボットだけが、昇進し、組織のトップになっていきます。残念ながら、東京大学も、東京電力も、医者も、一流と思われていた組織は、みんなその程度だということを露呈してしまいました。でも、それが事実なんです。
私たちは、義務教育で、「民主主義とは国民に主権がある」、「政治家は国民のための政治をしている」と教わります。本当に政治家がこの通りの動きをするなら、コトタマでいう「エ」次元の動きです。思いやりがあり、愛があり、本当に相手のためになることをする、真の政治家です。本来のスメラミコトの役割です。人間性を一番重視した動きです。
でも残念ながら、現在の社会では、人間性に欠けているけど命令に忠実に動ける犬やロボットが、組織のトップ、国のトップに立っているのに、一般大衆は、政治家は自分たち国民のために仕事をするもんだ、と思い込んでいるところに悲劇があると思います。加えて、日本という国も、東電ごとき組織も、自分たちだけでは何も判断出来ない、ピラミッドの中腹(もしかしたら三合目)あたりにいるんです。日本のトップ、組織のトップという事自体が幻想なのです。
最近ツィッターを見ていて思う事は、「○○は××するべき」という発言は、「こうあるべき」と洗脳された概念や理想に近づけるためには、○○は××してくれないと理屈が合わない、と言っているようなものです。例えば、政府は子供たちを避難させるべき、という考えは、政府は子供を守るものだ、と思い込んでいるから出てくる発言でしょう。そうではなくて、政府が20mSvに上げた、という行動、そして福島に悪名高い医者を派遣した行動から見れば、政府が国民のためにある組織か、もっと向こう側にあるピラミッドのためにある組織か、答えは明白な筈です。
2011年6月2日木曜日
2011年1月26日水曜日
食料に関する洗脳を考える その4
果物を食べてみると、果物は種のまわりに甘さ成分を集める習性があるように思う。果物としては、種のために集めている栄養分であるが、人間には甘さとして感じるのだろう。現代人は、甘さというと、人工物である「砂糖」を基準に考えてしまうが、甘さとは植物の種のまわりに集める習性にしか、自然界には存在していないように思う。
砂糖は、サトウキビの甘さ成分を抽出して乾燥させたものにすぎないだろう。東南アジアでは、サトウキビではなく、豊富にあるココナッツの果実から、甘さを得るのが基本だ。バナナの甘さを利用する手もある。バナナは熱すると、甘さが増して美味しい。甘さを求める対象は、「砂糖」である必要はないのだ。先日、バナナの甘さを利用したアップル・スクランブルを食べたが、非常に美味しかった。東南アジアに住む西洋人のアイディアだと思うが、素晴らしいアイディアだと思った。
赤道近辺の地域は、一年中暖かいから、植物がよく育つ。ということは、食料は豊富にある。おもしろいことは、赤道付近の食料がよく育つ国々の通貨レートは、世界的に低い。その結果、豊富にある食料を、寒い地域の先進国が安く買い取る。それが、世界の構図、となっている。
同時に、赤道近辺の食料が豊富にある温暖な国々は、衛生面で問題があったり、危険な地域であったり、貧乏であったり、そういったイメージで洗脳されつくされている。それに加えて、最近はテロという言葉も加わった。仮に衛生面に問題があったとしても、豊富な太陽光線の下、それ以上に植物が元気なので、そういった植物を栄養にしている人は、免疫力は高く、もっと元気な気がする。貧乏であるのは、通貨レートが低く設定されているからだ。
多くの人が、自分で考えず、メディアから与える自動連想パターンを植え付けられてしまうので、その地域と強烈なイメージをくっつけて報道すると、そのイメージしか持たなくなる。だから、多くの人がそういう国に近づかないし、外国と言えば欧米に向かってしまう。まあ、私もそうだったから、他人の事をとやかく言えるわけではありませんが・・・。
砂糖は、サトウキビの甘さ成分を抽出して乾燥させたものにすぎないだろう。東南アジアでは、サトウキビではなく、豊富にあるココナッツの果実から、甘さを得るのが基本だ。バナナの甘さを利用する手もある。バナナは熱すると、甘さが増して美味しい。甘さを求める対象は、「砂糖」である必要はないのだ。先日、バナナの甘さを利用したアップル・スクランブルを食べたが、非常に美味しかった。東南アジアに住む西洋人のアイディアだと思うが、素晴らしいアイディアだと思った。
赤道近辺の地域は、一年中暖かいから、植物がよく育つ。ということは、食料は豊富にある。おもしろいことは、赤道付近の食料がよく育つ国々の通貨レートは、世界的に低い。その結果、豊富にある食料を、寒い地域の先進国が安く買い取る。それが、世界の構図、となっている。
同時に、赤道近辺の食料が豊富にある温暖な国々は、衛生面で問題があったり、危険な地域であったり、貧乏であったり、そういったイメージで洗脳されつくされている。それに加えて、最近はテロという言葉も加わった。仮に衛生面に問題があったとしても、豊富な太陽光線の下、それ以上に植物が元気なので、そういった植物を栄養にしている人は、免疫力は高く、もっと元気な気がする。貧乏であるのは、通貨レートが低く設定されているからだ。
多くの人が、自分で考えず、メディアから与える自動連想パターンを植え付けられてしまうので、その地域と強烈なイメージをくっつけて報道すると、そのイメージしか持たなくなる。だから、多くの人がそういう国に近づかないし、外国と言えば欧米に向かってしまう。まあ、私もそうだったから、他人の事をとやかく言えるわけではありませんが・・・。
2011年1月25日火曜日
食料に関する洗脳を考える その3
私の日本の田舎では、出荷されない人参、さつまいも、などが、収穫後の畑にゴロゴロ転がっている。JAが、規格外と呼ばれる大きさが異なる作物、傷が付いた作物、を買い取らないらしい。義務教育は規格外の人間を落第させるが、JAは規格外の作物を落第させて捨てる。だから、田舎の畑に行けば、落第した、規格外(傷が付いている、小さ過ぎる、大き過ぎる、ルックスが悪い等)であることをを気にしなければ、充分に食べられる食料は余っている。
食料の価格が高くなるのは、コトタマでいうイ次元である、命(イの血、イの地)のある作物を、ウ次元である競争原理の世界(経済)に無理矢理参加させるからである。本来公平である生命に対し、形、均一さ、甘さ、などで点数を付けて順位を付け、規格外は落第させ、価格を吊り上げ、食料不足を演出している。優等生だけが流通ルートに乗せられ取引される。まるで、義務教育のやり方と一緒だ。均一化させて、レールに乗せ、規格外は邪魔者として除け者にされる。
日本のメロン、トマト、スイカの甘さ、は異常である。甘さで順位を付けて、競争させて、異常に甘い作物は尋常ではない高額で取引させる。海外に滞在すると、メロンやスイカは安価な果物だが、日本のように甘さを求めてはいない。元来、水分補給の役割で食されるメロンやスイカに、甘さを求めるほうがおかしいのだ。
ただ、この責任は消費者側にもある。自然と離されて生活していると、泥が付いた野菜を嫌がったり、ルックスの悪い野菜を嫌がる。甘くないスイカを嫌がる。均一化された商品が並ぶスーパーでしか買い物をしない。均一化した思想を持った人間は、均一化した対象物としか同調しない気もする。
一昔前、日本ではバナナが高級品として扱われていた。東南アジアでは、バナナは価格競争にならないほど豊富にあるので、一房10円~20円程度からある。1本ではない、一房の値段だ。しかも、バナナの種類はすごい豊富だ。地元の人は、美味しくないバナナには見向きもしない。彼らは、私には分からない品種を見分ける目を持っている。日本には、ほんの限られた品種のバナナしか輸入されていない。しかも、あまり甘くない、美味しくない品種しか、輸入されていない気がする。
食料の価格が高くなるのは、コトタマでいうイ次元である、命(イの血、イの地)のある作物を、ウ次元である競争原理の世界(経済)に無理矢理参加させるからである。本来公平である生命に対し、形、均一さ、甘さ、などで点数を付けて順位を付け、規格外は落第させ、価格を吊り上げ、食料不足を演出している。優等生だけが流通ルートに乗せられ取引される。まるで、義務教育のやり方と一緒だ。均一化させて、レールに乗せ、規格外は邪魔者として除け者にされる。
日本のメロン、トマト、スイカの甘さ、は異常である。甘さで順位を付けて、競争させて、異常に甘い作物は尋常ではない高額で取引させる。海外に滞在すると、メロンやスイカは安価な果物だが、日本のように甘さを求めてはいない。元来、水分補給の役割で食されるメロンやスイカに、甘さを求めるほうがおかしいのだ。
ただ、この責任は消費者側にもある。自然と離されて生活していると、泥が付いた野菜を嫌がったり、ルックスの悪い野菜を嫌がる。甘くないスイカを嫌がる。均一化された商品が並ぶスーパーでしか買い物をしない。均一化した思想を持った人間は、均一化した対象物としか同調しない気もする。
一昔前、日本ではバナナが高級品として扱われていた。東南アジアでは、バナナは価格競争にならないほど豊富にあるので、一房10円~20円程度からある。1本ではない、一房の値段だ。しかも、バナナの種類はすごい豊富だ。地元の人は、美味しくないバナナには見向きもしない。彼らは、私には分からない品種を見分ける目を持っている。日本には、ほんの限られた品種のバナナしか輸入されていない。しかも、あまり甘くない、美味しくない品種しか、輸入されていない気がする。
2011年1月24日月曜日
食料に関する洗脳を考える その2
一年中温暖な赤道付近の熱帯地域と比較すると、日本のような四季がある、いわゆる温帯地域では、寒い冬は植物が育たないので、保存食が必要である。日本の代表的な保存食は、漬け物、だろう。私は、野菜を軽く塩にまぶした浅漬けは、日本のサラダだと思う。添加物バリバリのドレッシングやマヨネーズではなくて、浅漬けで充分なのだ。
自然が素晴らしいのは、手間をかけなくても、豆類、米類は、天然の保存食だ。水に付けておくと柔らかくなり、豆類、米類は、発芽の準備を始める。そうして、人が食べられる状態に変化する。日本がなぜ古来から、米、豆を食してきたか、よく分かる気がする。
調味料ともなる醤油、味噌、は、豆類である大豆を原料とした保存食だ。私は、最近になって、本物の味噌は、ダシをとらなくても、味噌にお湯を入れただけでも美味しい味噌汁になる、ことを知った。スーパーで売られている大量生産品ではなくて、地方だけで売られている美味しい味噌を探すのだ。醤油も同様だ。
私は、ダシをとらなくてはいけない、というのは洗脳だと思っている。日本食にはダシをとらなくてはいけない、それは面倒、だから、簡単な市販調味料はいかがですか、という食品メーカーの陰謀だったように思う。その流れが、みりん、お酢、酒、味の素、そして、だしの素、その他各調味料にどんどん広がっていったのが現代食事情ではないだろうか。
ついでに、塩も海水を乾燥させただけの自然塩は、甘みがあって美味しい。料理は、原材料にこだわって、美味しい塩、醤油、味噌があれば、他の調味料はなくても、かなり美味しく出来上がる。料理は複雑な味付けが良いのではなくて、原材料の素材にこだわった単純な味付けが美味しいと思う。複雑なソースをつくるフランス料理よりも、素材を活かすイタリア料理やスペイン料理のほうが、自然に近いし、日本人の感覚に合っているように思う。
自然が素晴らしいのは、手間をかけなくても、豆類、米類は、天然の保存食だ。水に付けておくと柔らかくなり、豆類、米類は、発芽の準備を始める。そうして、人が食べられる状態に変化する。日本がなぜ古来から、米、豆を食してきたか、よく分かる気がする。
調味料ともなる醤油、味噌、は、豆類である大豆を原料とした保存食だ。私は、最近になって、本物の味噌は、ダシをとらなくても、味噌にお湯を入れただけでも美味しい味噌汁になる、ことを知った。スーパーで売られている大量生産品ではなくて、地方だけで売られている美味しい味噌を探すのだ。醤油も同様だ。
私は、ダシをとらなくてはいけない、というのは洗脳だと思っている。日本食にはダシをとらなくてはいけない、それは面倒、だから、簡単な市販調味料はいかがですか、という食品メーカーの陰謀だったように思う。その流れが、みりん、お酢、酒、味の素、そして、だしの素、その他各調味料にどんどん広がっていったのが現代食事情ではないだろうか。
ついでに、塩も海水を乾燥させただけの自然塩は、甘みがあって美味しい。料理は、原材料にこだわって、美味しい塩、醤油、味噌があれば、他の調味料はなくても、かなり美味しく出来上がる。料理は複雑な味付けが良いのではなくて、原材料の素材にこだわった単純な味付けが美味しいと思う。複雑なソースをつくるフランス料理よりも、素材を活かすイタリア料理やスペイン料理のほうが、自然に近いし、日本人の感覚に合っているように思う。
2011年1月23日日曜日
食料に関する洗脳を考える その1
ここタイに滞在していて、よく見かける光景は、タイ人は、注文した食べ物が気に入らないと、平気で残す。タイ人は、気分次第のア次元優先人種だから、食べたくないものは無理して食べない。本当によく残す。お皿の半分以上、残しているのもよく見かける。これは、温暖な気候なところは、食べ物が余っているから出来ることであって、日本人の感覚との違いを感じる。
日本では、「米粒を一粒残さずに食べる」ことが美徳とされる。そして、「お百姓さんに申し訳ない」という理屈も付いてくる。これだけで、一粒も残せないから「食料は不足している」と、食料はお百姓さんがつくるものであって「食料は自然界そのままに存在しない」、という二つの洗脳が自動的に働くように思う。
食べ物は、腐って、自然に還る。「もったいない」という発想は、それがお金に絡むと、正しいかな、とも思う。幾らかのお金で買った食物を、腐らせてムダにしてしまったら、最初に持っていたお金の価値はゼロになる。その感覚を「もったいない」と感じる。
でも、自然に育ったバナナが腐っても、またすぐにたくさん実がなることを経験上知っていたら、「もったいない」という感覚は生じない。腐っても、次のバナナがすぐにあるのだ。育てなくても、豊富にあるのだ。それが東南アジア諸国をはじめとした、赤道付近の国々だ。食料危機が嘘だということは、赤道近辺の地域に滞在してみると、すぐに分かる。私はまだほとんど行った事はないが、おそらくアフリカも同様だと思っている。
そう考えていくと、地域通貨である「腐るお金」という概念が、自然界とマッチするのもよく分かる。「腐るお金」というのは、使わなければ価値が減るお金だ。個人的には、地域通貨の問題点は、すべての生活必需品を、地域通貨だけで売買できない場合、どうしても現行のお金との関わりが生じてしまうところにある、と思っている。
特に、地域通貨で売買する距離が遠い場合、郵送料がその取引の大部分を占めてしまう。だから、本質的には、郵送料が必要ではない狭い地域内で、すべてとは言わないまでも、ほとんどの生活必需品を地域通貨の取引で賄えるようになれば、新しいタイプの自治体、本当の意味での独立国になり得る可能性は秘めている、と思う。
日本では、「米粒を一粒残さずに食べる」ことが美徳とされる。そして、「お百姓さんに申し訳ない」という理屈も付いてくる。これだけで、一粒も残せないから「食料は不足している」と、食料はお百姓さんがつくるものであって「食料は自然界そのままに存在しない」、という二つの洗脳が自動的に働くように思う。
食べ物は、腐って、自然に還る。「もったいない」という発想は、それがお金に絡むと、正しいかな、とも思う。幾らかのお金で買った食物を、腐らせてムダにしてしまったら、最初に持っていたお金の価値はゼロになる。その感覚を「もったいない」と感じる。
でも、自然に育ったバナナが腐っても、またすぐにたくさん実がなることを経験上知っていたら、「もったいない」という感覚は生じない。腐っても、次のバナナがすぐにあるのだ。育てなくても、豊富にあるのだ。それが東南アジア諸国をはじめとした、赤道付近の国々だ。食料危機が嘘だということは、赤道近辺の地域に滞在してみると、すぐに分かる。私はまだほとんど行った事はないが、おそらくアフリカも同様だと思っている。
そう考えていくと、地域通貨である「腐るお金」という概念が、自然界とマッチするのもよく分かる。「腐るお金」というのは、使わなければ価値が減るお金だ。個人的には、地域通貨の問題点は、すべての生活必需品を、地域通貨だけで売買できない場合、どうしても現行のお金との関わりが生じてしまうところにある、と思っている。
特に、地域通貨で売買する距離が遠い場合、郵送料がその取引の大部分を占めてしまう。だから、本質的には、郵送料が必要ではない狭い地域内で、すべてとは言わないまでも、ほとんどの生活必需品を地域通貨の取引で賄えるようになれば、新しいタイプの自治体、本当の意味での独立国になり得る可能性は秘めている、と思う。
2011年1月20日木曜日
「欧米か!」から日本語「コトタマ」へ
その後に流行ったスピリチュアルは、チャネリングに代表される「他力本願教」になって全然違う方向に流れたけど、「自分教」スピリチュアルの問題点は、対象に対する認識が甘いところにある。柵に囲まれた羊に、柵を見せないで「あんたたち、幸せでしょ」と言わせているようなイメージだ。だから片手落ち、なのだ。
では、なぜ片手落ちなのか? その原因は、相手に見えるものは自分にもある、という「投影」の解釈が邪魔をしている。「自分教」スピリチュアルでいう「投影」とは、相手に見える問題点は、自分のフィルターに問題がある、つまり自分に問題があるからであって、自分のフィルターを修正して、それで終わりなのだ。だから、もし自分が本当に正直者で、相手が嘘つきだったら、相手の嘘を見破れない仕組みになっている。
ユタはゴイに平気で嘘をつく。日本人はお人好しだから、相手が平気で嘘をつくとか、人類という言葉の範囲が極端に狭い、という相手の概念が理解できない。相手は人間と思っていないから、動物と同じだから、肉食で屠殺するのと同じように、平気で人間を殺せるのです。人間と思っていないから、動物を家畜にするのと同じように、人間も柵に入れて奴隷にできるのです。だから、故太田龍氏は、家畜全廃論に繋げたのです。
私はその後、「陰謀教」となって、いろいろな本を読んだ。それまで信じていた対象に関する情報を、もう一度疑ってみるのが「陰謀教」だ。その途中で、すべて欧米のものを追い掛けていることにも気が付いた。これは、マスコミに徹底的に鍛え上げられた「欧米教」の影響であるが、多くの日本人が最先端はすべて「欧米」にある、と洗脳されつくされている。
そして、日本にもともとあった知恵、「コトタマ」に行き着く。「五十音図」に行き着く。私が幼稚園生の頃、お気に入りの下敷きは、五十音図の下敷きだった。平仮名を覚えるための、あいうえおの下敷きだった。すっごい遠回りしたけど、もともと「よりどころ」は一番近くにあったのだ。「灯台下暗し」というヤツだ。 --> 続く
では、なぜ片手落ちなのか? その原因は、相手に見えるものは自分にもある、という「投影」の解釈が邪魔をしている。「自分教」スピリチュアルでいう「投影」とは、相手に見える問題点は、自分のフィルターに問題がある、つまり自分に問題があるからであって、自分のフィルターを修正して、それで終わりなのだ。だから、もし自分が本当に正直者で、相手が嘘つきだったら、相手の嘘を見破れない仕組みになっている。
ユタはゴイに平気で嘘をつく。日本人はお人好しだから、相手が平気で嘘をつくとか、人類という言葉の範囲が極端に狭い、という相手の概念が理解できない。相手は人間と思っていないから、動物と同じだから、肉食で屠殺するのと同じように、平気で人間を殺せるのです。人間と思っていないから、動物を家畜にするのと同じように、人間も柵に入れて奴隷にできるのです。だから、故太田龍氏は、家畜全廃論に繋げたのです。
私はその後、「陰謀教」となって、いろいろな本を読んだ。それまで信じていた対象に関する情報を、もう一度疑ってみるのが「陰謀教」だ。その途中で、すべて欧米のものを追い掛けていることにも気が付いた。これは、マスコミに徹底的に鍛え上げられた「欧米教」の影響であるが、多くの日本人が最先端はすべて「欧米」にある、と洗脳されつくされている。
見事に現代日本人の本質を突いていた。だから笑いが取れた。
そして、日本にもともとあった知恵、「コトタマ」に行き着く。「五十音図」に行き着く。私が幼稚園生の頃、お気に入りの下敷きは、五十音図の下敷きだった。平仮名を覚えるための、あいうえおの下敷きだった。すっごい遠回りしたけど、もともと「よりどころ」は一番近くにあったのだ。「灯台下暗し」というヤツだ。 --> 続く
義務教育で「正解」を外側に求める悪癖がつく
私にとって、義務教育の間は、「よりどころ」は「正解」にあった。何が正しくて、何が間違っているか? 文部省(旅すとっく)が決めた「正解」を答案用紙に書いていれば、テストの点数は高く、成績も良く、まわりからも褒められて、その流れで大学まで卒業した。「学校教」とでも言うのだろうか。(子供は未熟者だから勉強が必要な存在で「正解」は大人が知っている、ことになっている。だから、答えを外側に求めるおかしな習慣が身に付いてしまう)。
しかし、そのまま一般企業に就職して社会人になった時、何かがおかしいと思った。その時に初めて「疑い」を感じたのだ。一つの会社に終身雇用で、定年退職して、生涯年金をもらう人生を選ぶなら、会社を「よりどころ」にしても構わないだろう。実際、多くの人がそうだったのだと思う。
でも、私にはそれはイヤだったのだ。「若いうちに、好きな事をしたい」「まだまだ、やりたい事がある」「定年まで待つ、なんてマッピラだ」、そう、会社が「よりどころ」にはならない、「会社教」に入信することだけは出来ない、とすぐに分かったのだ。
同期入社で、入社式1日だけで辞めた人間も居る、と聞いた。すごく良い勘を持ったヤツだったんだろう。私には、まだそこまでの勇気はなかった。今思うと、それは「よりどころ」がなかったから。自分の「疑い」を判断する正確な「物差し」がなかったから。自分の状況把握に確信が持てなくて、次の行動が決められなかった。
その頃、私は、「疑い」を感じていることを、親、友達、同期の連中、によく話した。あとから思えば、完全に「愚痴」だ。酒を飲みながら、電話をしながら、もう「愚痴」ばっかり。「愚痴」とは、自分が抱えている「疑い」に対して、話を聞いてもらって、その答えを外側に求めている状態だろう。でも、当然、外側に答えを求めても、明確な答えなど誰も持ち合わせていない。
これが義務教育の悪い癖だ。自分以外の他者に「正解」を求めてしまうのだ。そう、答えは、自分で出す、それしかないのだ。今でこそ分かるが、まわりが「正しい」ことを選択するのではなくて、自分が「したい」ことを選択する、それが自分にとって「正しい」こと、なのだ。それが「ネコネコ教」信者の教義なのだ。
コトタマ学では、「正しい」は理屈だからオ次元で、「したい」は欲求だからウ次元である。どちらを極端に優先すれば良いということではなくて、バランスが大切だ。ただ、一般的に日本人は理屈(オ次元)が優先されすぎているので、欲求(ウ次元)を優先するくらいが、ちょうどバランスが取れる気がする。 --> 続く
しかし、そのまま一般企業に就職して社会人になった時、何かがおかしいと思った。その時に初めて「疑い」を感じたのだ。一つの会社に終身雇用で、定年退職して、生涯年金をもらう人生を選ぶなら、会社を「よりどころ」にしても構わないだろう。実際、多くの人がそうだったのだと思う。
でも、私にはそれはイヤだったのだ。「若いうちに、好きな事をしたい」「まだまだ、やりたい事がある」「定年まで待つ、なんてマッピラだ」、そう、会社が「よりどころ」にはならない、「会社教」に入信することだけは出来ない、とすぐに分かったのだ。
同期入社で、入社式1日だけで辞めた人間も居る、と聞いた。すごく良い勘を持ったヤツだったんだろう。私には、まだそこまでの勇気はなかった。今思うと、それは「よりどころ」がなかったから。自分の「疑い」を判断する正確な「物差し」がなかったから。自分の状況把握に確信が持てなくて、次の行動が決められなかった。
その頃、私は、「疑い」を感じていることを、親、友達、同期の連中、によく話した。あとから思えば、完全に「愚痴」だ。酒を飲みながら、電話をしながら、もう「愚痴」ばっかり。「愚痴」とは、自分が抱えている「疑い」に対して、話を聞いてもらって、その答えを外側に求めている状態だろう。でも、当然、外側に答えを求めても、明確な答えなど誰も持ち合わせていない。
これが義務教育の悪い癖だ。自分以外の他者に「正解」を求めてしまうのだ。そう、答えは、自分で出す、それしかないのだ。今でこそ分かるが、まわりが「正しい」ことを選択するのではなくて、自分が「したい」ことを選択する、それが自分にとって「正しい」こと、なのだ。それが「ネコネコ教」信者の教義なのだ。
コトタマ学では、「正しい」は理屈だからオ次元で、「したい」は欲求だからウ次元である。どちらを極端に優先すれば良いということではなくて、バランスが大切だ。ただ、一般的に日本人は理屈(オ次元)が優先されすぎているので、欲求(ウ次元)を優先するくらいが、ちょうどバランスが取れる気がする。 --> 続く
2011年1月16日日曜日
義務教育は、オ次元優先の訓練コース
もともと義務教育というのは、AといったらB、CといったらD、というように、大多数が同じような反応を示すように、しかも当人はそれが自分の考えであるかのように信じ込ませる、訓練をする過程である。そして、よく訓練された生徒がテストで良い点数を取り、良い成績を取り、親や先生などまわりの人から褒められる。
例えば、明治維新に対する解釈も、坂本龍馬に対する解釈も、教科書を作成した側の解釈を答案に書くと、良い成績が取れる。仮に、坂本龍馬はグラバーにそそのかされた、なんて答案に書いたら、先生はどう反応するんだろうか?
<参考>THINKERサイトの日本人が知らないニッポン
この自動的な連想パターンがオ次元の構築であり、構築されたオ次元の完成度が高い生徒を優等生扱いするわけだから、日本人がオ次元優先になったのも当然と言える。ア次元優先の生徒など、出来の悪い生徒として、親にも泣かれ、叱られ続けてきたことだろう。
では、なぜ訓練するのか? そのほうが、支配者にとって、好都合だからである。訓練された生徒にとって好都合なわけではない。チャイムが鳴って、無条件反射で生徒は席に座る。私はこの光景を思い出す度に、羊とカウベルの関係を連想してしまう。
成績の良い、よく訓練された(オ次元優先)の生徒が、大学まで進学する。大学を卒業したら、そのまま会社に就職する。ずっと、「時間」に拘束されながら。自ら満員電車に乗って。会社にとって、よく訓練された自主的に動く労働者は重要だ。一生、「疑問」に思わなければ、それはそれで幸せな人生かもしれない。
例えば、明治維新に対する解釈も、坂本龍馬に対する解釈も、教科書を作成した側の解釈を答案に書くと、良い成績が取れる。仮に、坂本龍馬はグラバーにそそのかされた、なんて答案に書いたら、先生はどう反応するんだろうか?
<参考>THINKERサイトの日本人が知らないニッポン
この自動的な連想パターンがオ次元の構築であり、構築されたオ次元の完成度が高い生徒を優等生扱いするわけだから、日本人がオ次元優先になったのも当然と言える。ア次元優先の生徒など、出来の悪い生徒として、親にも泣かれ、叱られ続けてきたことだろう。
では、なぜ訓練するのか? そのほうが、支配者にとって、好都合だからである。訓練された生徒にとって好都合なわけではない。チャイムが鳴って、無条件反射で生徒は席に座る。私はこの光景を思い出す度に、羊とカウベルの関係を連想してしまう。
成績の良い、よく訓練された(オ次元優先)の生徒が、大学まで進学する。大学を卒業したら、そのまま会社に就職する。ずっと、「時間」に拘束されながら。自ら満員電車に乗って。会社にとって、よく訓練された自主的に動く労働者は重要だ。一生、「疑問」に思わなければ、それはそれで幸せな人生かもしれない。
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