島田正路氏のコトタマの本を読んで、五十音図の解釈を見て、日本人の「よりどころ」は「五十音図」にある、と思った。何も難しいものではない。日本人誰もが知っている、アイウエオの「五十音図」だ。それを、現実認識の「よりどころ」に使うのだ。
上図の五十音図は、私たちが普段使う五十音図とは、母音の並びが違っているだけだ。一番、右側のアの段が、自分自身。一番、左側のワの段が、対象物。真ん中の八つ(※この数字が重要)の段から、八父音を取り除いたのが32子音(しおん)。両側がなくて、真ん中の八つしか知らない者がシオンである八幡様。
それを司っているのが須佐之男命で、祭っているのが八坂神社。八が付く数字は、この関係が多い。人名も同じ。ハタは、八つの田(田は五十音図を指す)。だから、政治家のハタが付く名前はその子孫。ハトも似たような者。では、前首相の名前は? ハッタリ、って、言葉もある。彼らがやりそうな行為だ。
ダジャレのようだが、日本語はほんとによく出来ている。日本人なら誰でも日常的に使っているのが日本語。その日本語コトタマが、日本人にとっての「よりどころ」となるのですよ。そういった意味で、私は「コトタマ教」信者なのです。
長くなりましたが、最後まで読んでいただいた方、有り難うございました。
2011年1月20日木曜日
「欧米か!」から日本語「コトタマ」へ
その後に流行ったスピリチュアルは、チャネリングに代表される「他力本願教」になって全然違う方向に流れたけど、「自分教」スピリチュアルの問題点は、対象に対する認識が甘いところにある。柵に囲まれた羊に、柵を見せないで「あんたたち、幸せでしょ」と言わせているようなイメージだ。だから片手落ち、なのだ。
では、なぜ片手落ちなのか? その原因は、相手に見えるものは自分にもある、という「投影」の解釈が邪魔をしている。「自分教」スピリチュアルでいう「投影」とは、相手に見える問題点は、自分のフィルターに問題がある、つまり自分に問題があるからであって、自分のフィルターを修正して、それで終わりなのだ。だから、もし自分が本当に正直者で、相手が嘘つきだったら、相手の嘘を見破れない仕組みになっている。
ユタはゴイに平気で嘘をつく。日本人はお人好しだから、相手が平気で嘘をつくとか、人類という言葉の範囲が極端に狭い、という相手の概念が理解できない。相手は人間と思っていないから、動物と同じだから、肉食で屠殺するのと同じように、平気で人間を殺せるのです。人間と思っていないから、動物を家畜にするのと同じように、人間も柵に入れて奴隷にできるのです。だから、故太田龍氏は、家畜全廃論に繋げたのです。
私はその後、「陰謀教」となって、いろいろな本を読んだ。それまで信じていた対象に関する情報を、もう一度疑ってみるのが「陰謀教」だ。その途中で、すべて欧米のものを追い掛けていることにも気が付いた。これは、マスコミに徹底的に鍛え上げられた「欧米教」の影響であるが、多くの日本人が最先端はすべて「欧米」にある、と洗脳されつくされている。
そして、日本にもともとあった知恵、「コトタマ」に行き着く。「五十音図」に行き着く。私が幼稚園生の頃、お気に入りの下敷きは、五十音図の下敷きだった。平仮名を覚えるための、あいうえおの下敷きだった。すっごい遠回りしたけど、もともと「よりどころ」は一番近くにあったのだ。「灯台下暗し」というヤツだ。 --> 続く
では、なぜ片手落ちなのか? その原因は、相手に見えるものは自分にもある、という「投影」の解釈が邪魔をしている。「自分教」スピリチュアルでいう「投影」とは、相手に見える問題点は、自分のフィルターに問題がある、つまり自分に問題があるからであって、自分のフィルターを修正して、それで終わりなのだ。だから、もし自分が本当に正直者で、相手が嘘つきだったら、相手の嘘を見破れない仕組みになっている。
ユタはゴイに平気で嘘をつく。日本人はお人好しだから、相手が平気で嘘をつくとか、人類という言葉の範囲が極端に狭い、という相手の概念が理解できない。相手は人間と思っていないから、動物と同じだから、肉食で屠殺するのと同じように、平気で人間を殺せるのです。人間と思っていないから、動物を家畜にするのと同じように、人間も柵に入れて奴隷にできるのです。だから、故太田龍氏は、家畜全廃論に繋げたのです。
私はその後、「陰謀教」となって、いろいろな本を読んだ。それまで信じていた対象に関する情報を、もう一度疑ってみるのが「陰謀教」だ。その途中で、すべて欧米のものを追い掛けていることにも気が付いた。これは、マスコミに徹底的に鍛え上げられた「欧米教」の影響であるが、多くの日本人が最先端はすべて「欧米」にある、と洗脳されつくされている。
見事に現代日本人の本質を突いていた。だから笑いが取れた。
そして、日本にもともとあった知恵、「コトタマ」に行き着く。「五十音図」に行き着く。私が幼稚園生の頃、お気に入りの下敷きは、五十音図の下敷きだった。平仮名を覚えるための、あいうえおの下敷きだった。すっごい遠回りしたけど、もともと「よりどころ」は一番近くにあったのだ。「灯台下暗し」というヤツだ。 --> 続く
「自分教」だけでは片手落ち
世界的に見ると、日本以外の国には、「宗教」があり、それが「よりどころ」となっているようにみえる。しかし、日本には宗教はない。一応、葬式の時だけ仏教徒になり、結婚式の時だけ神式やキリスト教徒になるが、普段の生活で宗教を意識することはない。世界にも珍しい無宗教の国だ。
それで、宗教というものの存在がよく分からなかったので、当時、いろいろと調べてみた。その頃、音楽好きの影響でゴスペルに関わった関係もあり、バプティスト派のキリスト教に潜入したことがある。でも、彼ら黒人にとってゴスペルという音楽は礼拝であって、どうやら神、ジーザスを本気で信じているみたいなのだ。そう、彼らにとっては、ジーザスが「よりどころ」なのだ。冗談じゃなくて、ほんとに本気なのだ。ほんとに信じられないくらい、本気なのだ。
私のような日本人にとっては、ジーザスは「よりどころ」にならない。それで、新しい「よりどころ」を探し始めた。最近、流行っているスピリチュアル・ブームの前の時代、本屋には「精神世界」というコーナーがあって、そのジャンルの本をよく読んだ。そのメインテーマは、自分を「よりどころ」とする「自分教」だ。自分自身が感じたことが「よりどころ」であり、自分が信じることが「よりどころ」であり、自分が「したいことをする」のが「自分教」だ。なるほど、と思った。
その「自分教」だけでも、自分だけの生活くらいだったら、かなり上手くいく。個人的には満足できる人生になる。だが21世紀に入り、ほんと9.11の瞬間に、世界が変わった。それまでの「自分教」だけでは、世の中で起きている出来事を説明しきれないのだ。その時初めて、私の目の前に「陰謀教」が見えてきた。
そして同時に、「精神世界」や「スピリチュアル」の「物差し」である「自分教」だけでは、片手落ちであることが分かった。コトタマ学でいうと、「ア」側しかなくて、「ワ」側がないのだ。「ア次元」だけで「エ次元」に至っていないのだ。対象物を測る「物差し」、状況を解釈する「よりどころ」が不充分だから、世界で現実に起きていることを正確に解釈できない。「自分教」だけでなく、「陰謀教」という対象を理解するための「物差し」が必要だったのだ。 --> 続く
それで、宗教というものの存在がよく分からなかったので、当時、いろいろと調べてみた。その頃、音楽好きの影響でゴスペルに関わった関係もあり、バプティスト派のキリスト教に潜入したことがある。でも、彼ら黒人にとってゴスペルという音楽は礼拝であって、どうやら神、ジーザスを本気で信じているみたいなのだ。そう、彼らにとっては、ジーザスが「よりどころ」なのだ。冗談じゃなくて、ほんとに本気なのだ。ほんとに信じられないくらい、本気なのだ。
私のような日本人にとっては、ジーザスは「よりどころ」にならない。それで、新しい「よりどころ」を探し始めた。最近、流行っているスピリチュアル・ブームの前の時代、本屋には「精神世界」というコーナーがあって、そのジャンルの本をよく読んだ。そのメインテーマは、自分を「よりどころ」とする「自分教」だ。自分自身が感じたことが「よりどころ」であり、自分が信じることが「よりどころ」であり、自分が「したいことをする」のが「自分教」だ。なるほど、と思った。
その「自分教」だけでも、自分だけの生活くらいだったら、かなり上手くいく。個人的には満足できる人生になる。だが21世紀に入り、ほんと9.11の瞬間に、世界が変わった。それまでの「自分教」だけでは、世の中で起きている出来事を説明しきれないのだ。その時初めて、私の目の前に「陰謀教」が見えてきた。
そして同時に、「精神世界」や「スピリチュアル」の「物差し」である「自分教」だけでは、片手落ちであることが分かった。コトタマ学でいうと、「ア」側しかなくて、「ワ」側がないのだ。「ア次元」だけで「エ次元」に至っていないのだ。対象物を測る「物差し」、状況を解釈する「よりどころ」が不充分だから、世界で現実に起きていることを正確に解釈できない。「自分教」だけでなく、「陰謀教」という対象を理解するための「物差し」が必要だったのだ。 --> 続く
義務教育で「正解」を外側に求める悪癖がつく
私にとって、義務教育の間は、「よりどころ」は「正解」にあった。何が正しくて、何が間違っているか? 文部省(旅すとっく)が決めた「正解」を答案用紙に書いていれば、テストの点数は高く、成績も良く、まわりからも褒められて、その流れで大学まで卒業した。「学校教」とでも言うのだろうか。(子供は未熟者だから勉強が必要な存在で「正解」は大人が知っている、ことになっている。だから、答えを外側に求めるおかしな習慣が身に付いてしまう)。
しかし、そのまま一般企業に就職して社会人になった時、何かがおかしいと思った。その時に初めて「疑い」を感じたのだ。一つの会社に終身雇用で、定年退職して、生涯年金をもらう人生を選ぶなら、会社を「よりどころ」にしても構わないだろう。実際、多くの人がそうだったのだと思う。
でも、私にはそれはイヤだったのだ。「若いうちに、好きな事をしたい」「まだまだ、やりたい事がある」「定年まで待つ、なんてマッピラだ」、そう、会社が「よりどころ」にはならない、「会社教」に入信することだけは出来ない、とすぐに分かったのだ。
同期入社で、入社式1日だけで辞めた人間も居る、と聞いた。すごく良い勘を持ったヤツだったんだろう。私には、まだそこまでの勇気はなかった。今思うと、それは「よりどころ」がなかったから。自分の「疑い」を判断する正確な「物差し」がなかったから。自分の状況把握に確信が持てなくて、次の行動が決められなかった。
その頃、私は、「疑い」を感じていることを、親、友達、同期の連中、によく話した。あとから思えば、完全に「愚痴」だ。酒を飲みながら、電話をしながら、もう「愚痴」ばっかり。「愚痴」とは、自分が抱えている「疑い」に対して、話を聞いてもらって、その答えを外側に求めている状態だろう。でも、当然、外側に答えを求めても、明確な答えなど誰も持ち合わせていない。
これが義務教育の悪い癖だ。自分以外の他者に「正解」を求めてしまうのだ。そう、答えは、自分で出す、それしかないのだ。今でこそ分かるが、まわりが「正しい」ことを選択するのではなくて、自分が「したい」ことを選択する、それが自分にとって「正しい」こと、なのだ。それが「ネコネコ教」信者の教義なのだ。
コトタマ学では、「正しい」は理屈だからオ次元で、「したい」は欲求だからウ次元である。どちらを極端に優先すれば良いということではなくて、バランスが大切だ。ただ、一般的に日本人は理屈(オ次元)が優先されすぎているので、欲求(ウ次元)を優先するくらいが、ちょうどバランスが取れる気がする。 --> 続く
しかし、そのまま一般企業に就職して社会人になった時、何かがおかしいと思った。その時に初めて「疑い」を感じたのだ。一つの会社に終身雇用で、定年退職して、生涯年金をもらう人生を選ぶなら、会社を「よりどころ」にしても構わないだろう。実際、多くの人がそうだったのだと思う。
でも、私にはそれはイヤだったのだ。「若いうちに、好きな事をしたい」「まだまだ、やりたい事がある」「定年まで待つ、なんてマッピラだ」、そう、会社が「よりどころ」にはならない、「会社教」に入信することだけは出来ない、とすぐに分かったのだ。
同期入社で、入社式1日だけで辞めた人間も居る、と聞いた。すごく良い勘を持ったヤツだったんだろう。私には、まだそこまでの勇気はなかった。今思うと、それは「よりどころ」がなかったから。自分の「疑い」を判断する正確な「物差し」がなかったから。自分の状況把握に確信が持てなくて、次の行動が決められなかった。
その頃、私は、「疑い」を感じていることを、親、友達、同期の連中、によく話した。あとから思えば、完全に「愚痴」だ。酒を飲みながら、電話をしながら、もう「愚痴」ばっかり。「愚痴」とは、自分が抱えている「疑い」に対して、話を聞いてもらって、その答えを外側に求めている状態だろう。でも、当然、外側に答えを求めても、明確な答えなど誰も持ち合わせていない。
これが義務教育の悪い癖だ。自分以外の他者に「正解」を求めてしまうのだ。そう、答えは、自分で出す、それしかないのだ。今でこそ分かるが、まわりが「正しい」ことを選択するのではなくて、自分が「したい」ことを選択する、それが自分にとって「正しい」こと、なのだ。それが「ネコネコ教」信者の教義なのだ。
コトタマ学では、「正しい」は理屈だからオ次元で、「したい」は欲求だからウ次元である。どちらを極端に優先すれば良いということではなくて、バランスが大切だ。ただ、一般的に日本人は理屈(オ次元)が優先されすぎているので、欲求(ウ次元)を優先するくらいが、ちょうどバランスが取れる気がする。 --> 続く
「よりどころ」とは、「物差し」であり「神様」である
日常生活の中で、生きていく中で、人生の中で、人には「よりどころ」が必要だ。なぜなら人生は「判断」の連続であり、判断するためには、その時の状況を把握する「物差し」が必要だからだ。その「物差し」が「よりどころ」となる。
同時に、「よりどころ」は「神様」となる。それが判断の基準になるからだ。テレビの言う事を信じている人は、テレビの情報を「よりどころ(神様)」にして、物事を判断する、「テレビ教」の信者だ。軍隊の兵士は、命令を「よりどころ(神様)」にして、命令があれば、人も殺せるし、特攻隊も出来る。「愛国教」とでも言うのだろうか。
そして、戦前の日本は、天皇が「よりどころ」だった。天皇を「神様」にしている「天皇教」だった。天皇のためだったら、命令で「死ねた」。
第二次大戦後の日本は、爆撃による荒廃、食料・物不足だけでなく、「よりどころ」であり「神様」であった天皇が、急に「象徴」というお人形様になってしまい、「よりどころ」を失って、何を頼りに生きていったら良いのか、相当戸惑ったのではないだろうか? そして、戦後、物の復興と同時に、精神的には、新しい「よりどころ」を探していたのではないだろうか?
その流れで、昭和30年代に登場したテレビを「よりどころ」とした「テレビ教」という新興宗教があらわれ、昭和40年代の高度成長期には会社を「よりどころ」とした「会社教」という新興宗教があらわれた。そう解釈すれば、なぜ親の世代があそこまで「テレビ教」なのか、なぜ団塊の世代はあそこまで「会社教」なのか、説明がつくような気がするのだ。 --> 続く
同時に、「よりどころ」は「神様」となる。それが判断の基準になるからだ。テレビの言う事を信じている人は、テレビの情報を「よりどころ(神様)」にして、物事を判断する、「テレビ教」の信者だ。軍隊の兵士は、命令を「よりどころ(神様)」にして、命令があれば、人も殺せるし、特攻隊も出来る。「愛国教」とでも言うのだろうか。
そして、戦前の日本は、天皇が「よりどころ」だった。天皇を「神様」にしている「天皇教」だった。天皇のためだったら、命令で「死ねた」。
第二次大戦後の日本は、爆撃による荒廃、食料・物不足だけでなく、「よりどころ」であり「神様」であった天皇が、急に「象徴」というお人形様になってしまい、「よりどころ」を失って、何を頼りに生きていったら良いのか、相当戸惑ったのではないだろうか? そして、戦後、物の復興と同時に、精神的には、新しい「よりどころ」を探していたのではないだろうか?
その流れで、昭和30年代に登場したテレビを「よりどころ」とした「テレビ教」という新興宗教があらわれ、昭和40年代の高度成長期には会社を「よりどころ」とした「会社教」という新興宗教があらわれた。そう解釈すれば、なぜ親の世代があそこまで「テレビ教」なのか、なぜ団塊の世代はあそこまで「会社教」なのか、説明がつくような気がするのだ。 --> 続く
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