東南アジアの中では、タイ、マレーシア、台湾などは、1タイバーツは約3円、1マレーシアリンギットは約30円、1台湾ドルは約3円、なので、3を基本として考えれば良い国々、つまり、「3の国」と分類している。為替レートだけ考えると、タイ、マレーシア、台湾は、ほぼ同じ経済レベルの国と言える。
私が一度も行ったこともないか、行ったことがあっても短い滞在だった国に、「2の国」や「1の国」も存在する。為替レートから推測すると、フィリピンは「2の国」で、ラオス、インドネシアなどは「1の国」だと思われる。これらの国に長期滞在したわけではないので、感覚的にはっきりしたことは分からない。
日本から見ると、タイやマレーシアを、「貧しい国」というイメージを持っている人がいるかもしれないが、タイやマレーシアには、ミャンマー、ラオス、インドネシア、フィリピン等から、多くの出稼ぎが来ている。資本主義の原則として、為替レートが低い国から高い国へ出稼ぎに行く。出稼ぎというのは、多く稼いで、少ない出費で生活できる自国に仕送りしなければ、利益があがらないから当然のことだ。
資本主義とは、どこも仕組みは一緒で、雇う側から考えてみれば、労働コストは安く抑えたい、肉体労働などの単純労働は出稼ぎに任せる、という構図が出来上がっていく。だから、利益を求めれば、どうしてもその構図に収束していく。
もう一つ不思議なことは、情報統制によって、日本から見たら経済レベルが隣同士の国は身近に感じるが、遠く離れた例えば「1の国」の情報はかなり少ないか、または、ものすごく危険な国であるかのように報道されている。そういった情報によって、意図的に近寄らせないようにしているとしか思えない。とは言え、私もまだフィリピンやインドネシアの観光地ではない地域には訪れたことがないので、その国の経済感覚は掴めていないままだ。
2011年2月6日日曜日
2011年2月5日土曜日
為替レートから見たその国の経済レベル その2
アメリカとヨーロッパをおおまかに「10の国」と定義したが、その時々によって為替レートが変わるので、現在のアメリカは「8の国」になっているし、ユーロは「17の国」から「11の国」まで落ちてきた。ということは、私たち日本人にとっては物価が以前より安く感じ、滞在しやすい、という意味である。
実は私は、イギリスには行ったことがない。イギリスは最近まで「20の国」で、日本から見たら物価が非常に高く感じる国だった筈だ。滞在したことがないので実際の感覚は分からないが、おそらくイギリスの物価は日本の2倍に感じることだろう。最近の円高で、イギリスも「12の国」くらいにまで落ちてきたので、イギリスに旅行に行くなら今がチャンスだろう。
その次の経済レベルとして、6、7、8を基本として考えれば良い国々がある。大雑把ではあるが、私はこれらの国々を「7の国」として分類している。厳密に言うと、スイス、カナダは「8の国」、オーストラリア、シンガポールは「7の国」、ニュージーランドは「6の国」、ぐらいだろうか。
オーストラリアに行くと、日本でいう100円の感覚、つまり、アメリカの1ドルの感覚を、オーストラリアでは1オージードルの感覚に持ち込めば、無難に滞在できる。つまり、日本で100円で買える物が、オーストラリアでは1オージードルで買える、という意味だ。結果的に、オーストラリアでは日本よりも物価が7割程度に感じる。だから「7の国」なのだ。同様に、「6の国」であるニュージーランドでは、日本の6割くらいの感覚で過ごせるので、オーストラリアよりも物価が安く感じる。
日本円とアジア圏の為替レートを見ると、東南アジアの中で、香港、シンガポールの為替レートは、飛び抜けて高い。これは、もともとイギリス領だった狭い地域が独立した形をとっていて、狭い地域だから可能になっているのだろう。私は、香港に行ったのは12年くらい前なので、実際のレート感覚は忘れてしまったが、私の「為替レートから読む経済レベルの法則」では、香港は「10の国」に分類される。日本と同じくらいの物価感覚だろうか。シンガポールは、法則通り「7の国」の物価感覚だ。
実は私は、イギリスには行ったことがない。イギリスは最近まで「20の国」で、日本から見たら物価が非常に高く感じる国だった筈だ。滞在したことがないので実際の感覚は分からないが、おそらくイギリスの物価は日本の2倍に感じることだろう。最近の円高で、イギリスも「12の国」くらいにまで落ちてきたので、イギリスに旅行に行くなら今がチャンスだろう。
その次の経済レベルとして、6、7、8を基本として考えれば良い国々がある。大雑把ではあるが、私はこれらの国々を「7の国」として分類している。厳密に言うと、スイス、カナダは「8の国」、オーストラリア、シンガポールは「7の国」、ニュージーランドは「6の国」、ぐらいだろうか。
オーストラリアに行くと、日本でいう100円の感覚、つまり、アメリカの1ドルの感覚を、オーストラリアでは1オージードルの感覚に持ち込めば、無難に滞在できる。つまり、日本で100円で買える物が、オーストラリアでは1オージードルで買える、という意味だ。結果的に、オーストラリアでは日本よりも物価が7割程度に感じる。だから「7の国」なのだ。同様に、「6の国」であるニュージーランドでは、日本の6割くらいの感覚で過ごせるので、オーストラリアよりも物価が安く感じる。
日本円とアジア圏の為替レートを見ると、東南アジアの中で、香港、シンガポールの為替レートは、飛び抜けて高い。これは、もともとイギリス領だった狭い地域が独立した形をとっていて、狭い地域だから可能になっているのだろう。私は、香港に行ったのは12年くらい前なので、実際のレート感覚は忘れてしまったが、私の「為替レートから読む経済レベルの法則」では、香港は「10の国」に分類される。日本と同じくらいの物価感覚だろうか。シンガポールは、法則通り「7の国」の物価感覚だ。
2011年2月4日金曜日
為替レートから見たその国の経済レベル その1
私は、各国の経済の強さは、ほとんど為替レートによって決まってしまうのが、現在の世界経済だと思っている。この2年間くらいの為替レートを見ると、米ドルは1ドル80円~110円あたりを推移し、ユーロは110円~170円、ポンドは120円~220円、オージードルは60円~100円、ニュージーランドドルは50円~80円、スイスフランは70円~100円、カナダドルは70円~110円、香港ドルは11円~14円、シンガポールドルは60円~80円を推移している。(ひまわり証券のデータより)
外国に出掛けると、まず気にするのは、その国の為替レートだろう。私は今まで、三十数カ国に行ったことがあるが、日本でいう100円の感覚を、アメリカでは1ドルの感覚に、ヨーロッパでは1ユーロの感覚に持ち込めば、無難に滞在できるように思う。それが証拠に、日本では100円ショップがあるが、ヨーロッパでは1ユーロショップがあった記憶がある。アメリカにも、たしか99セント・ショップ(ほぼ1ドル・ショップ)があった気がする。
つまり、日本で100円で買えるものが、アメリカでは1ドルで買え、ヨーロッパでは1ユーロで買える、そんな経済構造になっているように思う。もちろん、これは大雑把な見方であり、その国で生産していたり、得意な商品は価格が安く、その国にとって稀少だったり、輸入している商品は価格が高くなるのが、経済の原則だろう。
そのような理由で、私が今まで行ったことがある国の経済(物価)レベルを、円に対する為替レートによって、おおまかに「10の国」「7の国」「3の国」に分類している。アメリカや、ユーロ圏のヨーロッパ諸国は「10の国」だ。「10の国」とは、日本と比較して10割の意味で、日本と同じ経済レベル、物価が同じくらい、という意味だ。
外国に出掛けると、まず気にするのは、その国の為替レートだろう。私は今まで、三十数カ国に行ったことがあるが、日本でいう100円の感覚を、アメリカでは1ドルの感覚に、ヨーロッパでは1ユーロの感覚に持ち込めば、無難に滞在できるように思う。それが証拠に、日本では100円ショップがあるが、ヨーロッパでは1ユーロショップがあった記憶がある。アメリカにも、たしか99セント・ショップ(ほぼ1ドル・ショップ)があった気がする。
つまり、日本で100円で買えるものが、アメリカでは1ドルで買え、ヨーロッパでは1ユーロで買える、そんな経済構造になっているように思う。もちろん、これは大雑把な見方であり、その国で生産していたり、得意な商品は価格が安く、その国にとって稀少だったり、輸入している商品は価格が高くなるのが、経済の原則だろう。
そのような理由で、私が今まで行ったことがある国の経済(物価)レベルを、円に対する為替レートによって、おおまかに「10の国」「7の国」「3の国」に分類している。アメリカや、ユーロ圏のヨーロッパ諸国は「10の国」だ。「10の国」とは、日本と比較して10割の意味で、日本と同じ経済レベル、物価が同じくらい、という意味だ。
2011年1月26日水曜日
食料に関する洗脳を考える その4
果物を食べてみると、果物は種のまわりに甘さ成分を集める習性があるように思う。果物としては、種のために集めている栄養分であるが、人間には甘さとして感じるのだろう。現代人は、甘さというと、人工物である「砂糖」を基準に考えてしまうが、甘さとは植物の種のまわりに集める習性にしか、自然界には存在していないように思う。
砂糖は、サトウキビの甘さ成分を抽出して乾燥させたものにすぎないだろう。東南アジアでは、サトウキビではなく、豊富にあるココナッツの果実から、甘さを得るのが基本だ。バナナの甘さを利用する手もある。バナナは熱すると、甘さが増して美味しい。甘さを求める対象は、「砂糖」である必要はないのだ。先日、バナナの甘さを利用したアップル・スクランブルを食べたが、非常に美味しかった。東南アジアに住む西洋人のアイディアだと思うが、素晴らしいアイディアだと思った。
赤道近辺の地域は、一年中暖かいから、植物がよく育つ。ということは、食料は豊富にある。おもしろいことは、赤道付近の食料がよく育つ国々の通貨レートは、世界的に低い。その結果、豊富にある食料を、寒い地域の先進国が安く買い取る。それが、世界の構図、となっている。
同時に、赤道近辺の食料が豊富にある温暖な国々は、衛生面で問題があったり、危険な地域であったり、貧乏であったり、そういったイメージで洗脳されつくされている。それに加えて、最近はテロという言葉も加わった。仮に衛生面に問題があったとしても、豊富な太陽光線の下、それ以上に植物が元気なので、そういった植物を栄養にしている人は、免疫力は高く、もっと元気な気がする。貧乏であるのは、通貨レートが低く設定されているからだ。
多くの人が、自分で考えず、メディアから与える自動連想パターンを植え付けられてしまうので、その地域と強烈なイメージをくっつけて報道すると、そのイメージしか持たなくなる。だから、多くの人がそういう国に近づかないし、外国と言えば欧米に向かってしまう。まあ、私もそうだったから、他人の事をとやかく言えるわけではありませんが・・・。
砂糖は、サトウキビの甘さ成分を抽出して乾燥させたものにすぎないだろう。東南アジアでは、サトウキビではなく、豊富にあるココナッツの果実から、甘さを得るのが基本だ。バナナの甘さを利用する手もある。バナナは熱すると、甘さが増して美味しい。甘さを求める対象は、「砂糖」である必要はないのだ。先日、バナナの甘さを利用したアップル・スクランブルを食べたが、非常に美味しかった。東南アジアに住む西洋人のアイディアだと思うが、素晴らしいアイディアだと思った。
赤道近辺の地域は、一年中暖かいから、植物がよく育つ。ということは、食料は豊富にある。おもしろいことは、赤道付近の食料がよく育つ国々の通貨レートは、世界的に低い。その結果、豊富にある食料を、寒い地域の先進国が安く買い取る。それが、世界の構図、となっている。
同時に、赤道近辺の食料が豊富にある温暖な国々は、衛生面で問題があったり、危険な地域であったり、貧乏であったり、そういったイメージで洗脳されつくされている。それに加えて、最近はテロという言葉も加わった。仮に衛生面に問題があったとしても、豊富な太陽光線の下、それ以上に植物が元気なので、そういった植物を栄養にしている人は、免疫力は高く、もっと元気な気がする。貧乏であるのは、通貨レートが低く設定されているからだ。
多くの人が、自分で考えず、メディアから与える自動連想パターンを植え付けられてしまうので、その地域と強烈なイメージをくっつけて報道すると、そのイメージしか持たなくなる。だから、多くの人がそういう国に近づかないし、外国と言えば欧米に向かってしまう。まあ、私もそうだったから、他人の事をとやかく言えるわけではありませんが・・・。
2011年1月25日火曜日
食料に関する洗脳を考える その3
私の日本の田舎では、出荷されない人参、さつまいも、などが、収穫後の畑にゴロゴロ転がっている。JAが、規格外と呼ばれる大きさが異なる作物、傷が付いた作物、を買い取らないらしい。義務教育は規格外の人間を落第させるが、JAは規格外の作物を落第させて捨てる。だから、田舎の畑に行けば、落第した、規格外(傷が付いている、小さ過ぎる、大き過ぎる、ルックスが悪い等)であることをを気にしなければ、充分に食べられる食料は余っている。
食料の価格が高くなるのは、コトタマでいうイ次元である、命(イの血、イの地)のある作物を、ウ次元である競争原理の世界(経済)に無理矢理参加させるからである。本来公平である生命に対し、形、均一さ、甘さ、などで点数を付けて順位を付け、規格外は落第させ、価格を吊り上げ、食料不足を演出している。優等生だけが流通ルートに乗せられ取引される。まるで、義務教育のやり方と一緒だ。均一化させて、レールに乗せ、規格外は邪魔者として除け者にされる。
日本のメロン、トマト、スイカの甘さ、は異常である。甘さで順位を付けて、競争させて、異常に甘い作物は尋常ではない高額で取引させる。海外に滞在すると、メロンやスイカは安価な果物だが、日本のように甘さを求めてはいない。元来、水分補給の役割で食されるメロンやスイカに、甘さを求めるほうがおかしいのだ。
ただ、この責任は消費者側にもある。自然と離されて生活していると、泥が付いた野菜を嫌がったり、ルックスの悪い野菜を嫌がる。甘くないスイカを嫌がる。均一化された商品が並ぶスーパーでしか買い物をしない。均一化した思想を持った人間は、均一化した対象物としか同調しない気もする。
一昔前、日本ではバナナが高級品として扱われていた。東南アジアでは、バナナは価格競争にならないほど豊富にあるので、一房10円~20円程度からある。1本ではない、一房の値段だ。しかも、バナナの種類はすごい豊富だ。地元の人は、美味しくないバナナには見向きもしない。彼らは、私には分からない品種を見分ける目を持っている。日本には、ほんの限られた品種のバナナしか輸入されていない。しかも、あまり甘くない、美味しくない品種しか、輸入されていない気がする。
食料の価格が高くなるのは、コトタマでいうイ次元である、命(イの血、イの地)のある作物を、ウ次元である競争原理の世界(経済)に無理矢理参加させるからである。本来公平である生命に対し、形、均一さ、甘さ、などで点数を付けて順位を付け、規格外は落第させ、価格を吊り上げ、食料不足を演出している。優等生だけが流通ルートに乗せられ取引される。まるで、義務教育のやり方と一緒だ。均一化させて、レールに乗せ、規格外は邪魔者として除け者にされる。
日本のメロン、トマト、スイカの甘さ、は異常である。甘さで順位を付けて、競争させて、異常に甘い作物は尋常ではない高額で取引させる。海外に滞在すると、メロンやスイカは安価な果物だが、日本のように甘さを求めてはいない。元来、水分補給の役割で食されるメロンやスイカに、甘さを求めるほうがおかしいのだ。
ただ、この責任は消費者側にもある。自然と離されて生活していると、泥が付いた野菜を嫌がったり、ルックスの悪い野菜を嫌がる。甘くないスイカを嫌がる。均一化された商品が並ぶスーパーでしか買い物をしない。均一化した思想を持った人間は、均一化した対象物としか同調しない気もする。
一昔前、日本ではバナナが高級品として扱われていた。東南アジアでは、バナナは価格競争にならないほど豊富にあるので、一房10円~20円程度からある。1本ではない、一房の値段だ。しかも、バナナの種類はすごい豊富だ。地元の人は、美味しくないバナナには見向きもしない。彼らは、私には分からない品種を見分ける目を持っている。日本には、ほんの限られた品種のバナナしか輸入されていない。しかも、あまり甘くない、美味しくない品種しか、輸入されていない気がする。
2011年1月24日月曜日
食料に関する洗脳を考える その2
一年中温暖な赤道付近の熱帯地域と比較すると、日本のような四季がある、いわゆる温帯地域では、寒い冬は植物が育たないので、保存食が必要である。日本の代表的な保存食は、漬け物、だろう。私は、野菜を軽く塩にまぶした浅漬けは、日本のサラダだと思う。添加物バリバリのドレッシングやマヨネーズではなくて、浅漬けで充分なのだ。
自然が素晴らしいのは、手間をかけなくても、豆類、米類は、天然の保存食だ。水に付けておくと柔らかくなり、豆類、米類は、発芽の準備を始める。そうして、人が食べられる状態に変化する。日本がなぜ古来から、米、豆を食してきたか、よく分かる気がする。
調味料ともなる醤油、味噌、は、豆類である大豆を原料とした保存食だ。私は、最近になって、本物の味噌は、ダシをとらなくても、味噌にお湯を入れただけでも美味しい味噌汁になる、ことを知った。スーパーで売られている大量生産品ではなくて、地方だけで売られている美味しい味噌を探すのだ。醤油も同様だ。
私は、ダシをとらなくてはいけない、というのは洗脳だと思っている。日本食にはダシをとらなくてはいけない、それは面倒、だから、簡単な市販調味料はいかがですか、という食品メーカーの陰謀だったように思う。その流れが、みりん、お酢、酒、味の素、そして、だしの素、その他各調味料にどんどん広がっていったのが現代食事情ではないだろうか。
ついでに、塩も海水を乾燥させただけの自然塩は、甘みがあって美味しい。料理は、原材料にこだわって、美味しい塩、醤油、味噌があれば、他の調味料はなくても、かなり美味しく出来上がる。料理は複雑な味付けが良いのではなくて、原材料の素材にこだわった単純な味付けが美味しいと思う。複雑なソースをつくるフランス料理よりも、素材を活かすイタリア料理やスペイン料理のほうが、自然に近いし、日本人の感覚に合っているように思う。
自然が素晴らしいのは、手間をかけなくても、豆類、米類は、天然の保存食だ。水に付けておくと柔らかくなり、豆類、米類は、発芽の準備を始める。そうして、人が食べられる状態に変化する。日本がなぜ古来から、米、豆を食してきたか、よく分かる気がする。
調味料ともなる醤油、味噌、は、豆類である大豆を原料とした保存食だ。私は、最近になって、本物の味噌は、ダシをとらなくても、味噌にお湯を入れただけでも美味しい味噌汁になる、ことを知った。スーパーで売られている大量生産品ではなくて、地方だけで売られている美味しい味噌を探すのだ。醤油も同様だ。
私は、ダシをとらなくてはいけない、というのは洗脳だと思っている。日本食にはダシをとらなくてはいけない、それは面倒、だから、簡単な市販調味料はいかがですか、という食品メーカーの陰謀だったように思う。その流れが、みりん、お酢、酒、味の素、そして、だしの素、その他各調味料にどんどん広がっていったのが現代食事情ではないだろうか。
ついでに、塩も海水を乾燥させただけの自然塩は、甘みがあって美味しい。料理は、原材料にこだわって、美味しい塩、醤油、味噌があれば、他の調味料はなくても、かなり美味しく出来上がる。料理は複雑な味付けが良いのではなくて、原材料の素材にこだわった単純な味付けが美味しいと思う。複雑なソースをつくるフランス料理よりも、素材を活かすイタリア料理やスペイン料理のほうが、自然に近いし、日本人の感覚に合っているように思う。
2011年1月23日日曜日
食料に関する洗脳を考える その1
ここタイに滞在していて、よく見かける光景は、タイ人は、注文した食べ物が気に入らないと、平気で残す。タイ人は、気分次第のア次元優先人種だから、食べたくないものは無理して食べない。本当によく残す。お皿の半分以上、残しているのもよく見かける。これは、温暖な気候なところは、食べ物が余っているから出来ることであって、日本人の感覚との違いを感じる。
日本では、「米粒を一粒残さずに食べる」ことが美徳とされる。そして、「お百姓さんに申し訳ない」という理屈も付いてくる。これだけで、一粒も残せないから「食料は不足している」と、食料はお百姓さんがつくるものであって「食料は自然界そのままに存在しない」、という二つの洗脳が自動的に働くように思う。
食べ物は、腐って、自然に還る。「もったいない」という発想は、それがお金に絡むと、正しいかな、とも思う。幾らかのお金で買った食物を、腐らせてムダにしてしまったら、最初に持っていたお金の価値はゼロになる。その感覚を「もったいない」と感じる。
でも、自然に育ったバナナが腐っても、またすぐにたくさん実がなることを経験上知っていたら、「もったいない」という感覚は生じない。腐っても、次のバナナがすぐにあるのだ。育てなくても、豊富にあるのだ。それが東南アジア諸国をはじめとした、赤道付近の国々だ。食料危機が嘘だということは、赤道近辺の地域に滞在してみると、すぐに分かる。私はまだほとんど行った事はないが、おそらくアフリカも同様だと思っている。
そう考えていくと、地域通貨である「腐るお金」という概念が、自然界とマッチするのもよく分かる。「腐るお金」というのは、使わなければ価値が減るお金だ。個人的には、地域通貨の問題点は、すべての生活必需品を、地域通貨だけで売買できない場合、どうしても現行のお金との関わりが生じてしまうところにある、と思っている。
特に、地域通貨で売買する距離が遠い場合、郵送料がその取引の大部分を占めてしまう。だから、本質的には、郵送料が必要ではない狭い地域内で、すべてとは言わないまでも、ほとんどの生活必需品を地域通貨の取引で賄えるようになれば、新しいタイプの自治体、本当の意味での独立国になり得る可能性は秘めている、と思う。
日本では、「米粒を一粒残さずに食べる」ことが美徳とされる。そして、「お百姓さんに申し訳ない」という理屈も付いてくる。これだけで、一粒も残せないから「食料は不足している」と、食料はお百姓さんがつくるものであって「食料は自然界そのままに存在しない」、という二つの洗脳が自動的に働くように思う。
食べ物は、腐って、自然に還る。「もったいない」という発想は、それがお金に絡むと、正しいかな、とも思う。幾らかのお金で買った食物を、腐らせてムダにしてしまったら、最初に持っていたお金の価値はゼロになる。その感覚を「もったいない」と感じる。
でも、自然に育ったバナナが腐っても、またすぐにたくさん実がなることを経験上知っていたら、「もったいない」という感覚は生じない。腐っても、次のバナナがすぐにあるのだ。育てなくても、豊富にあるのだ。それが東南アジア諸国をはじめとした、赤道付近の国々だ。食料危機が嘘だということは、赤道近辺の地域に滞在してみると、すぐに分かる。私はまだほとんど行った事はないが、おそらくアフリカも同様だと思っている。
そう考えていくと、地域通貨である「腐るお金」という概念が、自然界とマッチするのもよく分かる。「腐るお金」というのは、使わなければ価値が減るお金だ。個人的には、地域通貨の問題点は、すべての生活必需品を、地域通貨だけで売買できない場合、どうしても現行のお金との関わりが生じてしまうところにある、と思っている。
特に、地域通貨で売買する距離が遠い場合、郵送料がその取引の大部分を占めてしまう。だから、本質的には、郵送料が必要ではない狭い地域内で、すべてとは言わないまでも、ほとんどの生活必需品を地域通貨の取引で賄えるようになれば、新しいタイプの自治体、本当の意味での独立国になり得る可能性は秘めている、と思う。
2011年1月18日火曜日
競争原理(ウ次元)と経済活動
コトタマ学でいうウ次元とは、基本的に「欲求」であり、「競争原理」であり、「経済活動」もウ次元に含まれる。なぜなら、「経済活動」は「売る」「得(ウ)る」、つまり、「ウがする」動きだからである。
日本の法律には、一応、名目上は、独占禁止法があり、各業界でライバル会社が争っている(ことになっている)。自動車業界ならトヨタ、日産、マツダ、等々。電気業界なら東芝、日立、松下、シャープ、等々。ビール業界なら、キリン、アサヒ、サッポロ、サントリー、等々。テレビ業界なら、日本テレビ、TBS、フジ、テレビ朝日、等々。
テレビ業界でいう電通のような双頭の鷲的な立場に居れば、すべてを牛耳っている立場で物事を見ているだろう。しかし、おそらく各々の会社の内部にいる従業員にとっては、ライバル感を煽られながら、仕事をしていることだろう。あちらのメーカーはこんなのを作った、あちらのメーカーに先に特許を取られた、というように。そこには、まさしく「競争原理」が働いている。
「経済活動」における「競争原理」は、大企業に限った事ではない。個人商売であっても、価格と品質という両面で、競争を強いられている。消費者は、同じ品質ならより価格が低い商品を買うし、価格が同じなら品質の良い商品を選ぶ、のは当然の選択だ。立地条件や、品数の多さも、店としての品質のうちだろう。
そうやって、日本では、大型スーパー、100円ショップ、ユニクロ、の登場により、市場や、商店街は消えかかっている。個人商売で、大企業に互角な勝負を挑んでも、勝てるわけはないのだ。「競争原理」なので、どうしても勝ち負けなのだ。その結果、競争原理に支配された経済活動は、どうしても大企業に負け、吸収されていく。商店街の一人の店主が、大巨人アンドレに勝てるわけがないのだ。
では、経済活動における競争原理のメリット、とは何か? 日本の自動車業界、電気業界等は、間違いなく便利な商品をつくり、私たちの生活に欠かせない物をつくりだしている。車は便利な道具だ。パソコンも便利な道具だ。冷蔵庫・洗濯機はなくてはならない物となった。それが、コトタマ学でいう科学物質文明の発達で、第二文明を謳歌している最中と言える。
コトタマ学では、ウ次元の競争原理がなければ、個人のみの幸せ(縄文時代のような科学物質文明のない幸せ)で満足してしまって、化学物質文明をつくることができない。だから、「競争原理による天下統一」という方便をつかって、その役目をユダヤにさせた、と言われている。でも、まだ物質科学文明も完成せず、人類の幸せからも離れてしまったまま、第三文明には至っていない・・・、とそう解釈している。では、スメラミコトは、この先、どうオチをつけるつもりだったんでしょうね・・・。
日本の法律には、一応、名目上は、独占禁止法があり、各業界でライバル会社が争っている(ことになっている)。自動車業界ならトヨタ、日産、マツダ、等々。電気業界なら東芝、日立、松下、シャープ、等々。ビール業界なら、キリン、アサヒ、サッポロ、サントリー、等々。テレビ業界なら、日本テレビ、TBS、フジ、テレビ朝日、等々。
テレビ業界でいう電通のような双頭の鷲的な立場に居れば、すべてを牛耳っている立場で物事を見ているだろう。しかし、おそらく各々の会社の内部にいる従業員にとっては、ライバル感を煽られながら、仕事をしていることだろう。あちらのメーカーはこんなのを作った、あちらのメーカーに先に特許を取られた、というように。そこには、まさしく「競争原理」が働いている。
「経済活動」における「競争原理」は、大企業に限った事ではない。個人商売であっても、価格と品質という両面で、競争を強いられている。消費者は、同じ品質ならより価格が低い商品を買うし、価格が同じなら品質の良い商品を選ぶ、のは当然の選択だ。立地条件や、品数の多さも、店としての品質のうちだろう。
そうやって、日本では、大型スーパー、100円ショップ、ユニクロ、の登場により、市場や、商店街は消えかかっている。個人商売で、大企業に互角な勝負を挑んでも、勝てるわけはないのだ。「競争原理」なので、どうしても勝ち負けなのだ。その結果、競争原理に支配された経済活動は、どうしても大企業に負け、吸収されていく。商店街の一人の店主が、大巨人アンドレに勝てるわけがないのだ。
では、経済活動における競争原理のメリット、とは何か? 日本の自動車業界、電気業界等は、間違いなく便利な商品をつくり、私たちの生活に欠かせない物をつくりだしている。車は便利な道具だ。パソコンも便利な道具だ。冷蔵庫・洗濯機はなくてはならない物となった。それが、コトタマ学でいう科学物質文明の発達で、第二文明を謳歌している最中と言える。
コトタマ学では、ウ次元の競争原理がなければ、個人のみの幸せ(縄文時代のような科学物質文明のない幸せ)で満足してしまって、化学物質文明をつくることができない。だから、「競争原理による天下統一」という方便をつかって、その役目をユダヤにさせた、と言われている。でも、まだ物質科学文明も完成せず、人類の幸せからも離れてしまったまま、第三文明には至っていない・・・、とそう解釈している。では、スメラミコトは、この先、どうオチをつけるつもりだったんでしょうね・・・。
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